空間の広さ

 

 

書を読むときに口角をあげてみること。部屋の中あるいはマスクの下の口元は誰にも見られない。世界を読むときにもそうして良いはず。

 

 

 

世の中はGWでウキウキかもしれないが、こちとら明日は仕事で休みが飛び飛び。明後日はまた休みで、その次は仕事で、後が三連休。GWも傾向の話。みなが休みに行くところで働いている人は繁忙期。

 

 

 

無関係に1日で楽しむ。何も予め決めることをせずに、心の赴くままに任せることにしていた。以下は観察記。

 

朝はコンビニに行く模様。某人気少年雑誌を立ち読み。そろそろ鬼ヶ島編も終わりそう。能力ではなく覇気が世界を動かすって、何やら啓示的。カップラーメンとオロナミンCと飲むヨーグルト(いちご)とマスカルポーネのアイスと煙草を買った。昼ご飯は冷凍ご飯と余っていた生ハムと生卵で卵かけごはんというジャンクさを召し上がった。

 

ここから夕方前まで何もしていない。いや、闇ゲー動画を見つつアプリゲームとかはやっていた。コンビニに行く頃には降っていなかった雨が世界を伝っていたが、お構いなしに出かけることにした。コンビニで購入した大きめの傘を準備して意気揚々と出発したところ、外に出ると既にほとんど止んでいる。傘に響く雨音も好きなのだが。雨が止んで風が吹く。くせ毛が爆発している。

 

着いた先、まずは家電量販店。電動カミソリの替え刃を買う。レジで店員さんが「定価はこれですが、値下げのタグがあります、値下げの方の値段で良いですか」。機械的にはいと答えたが、この言い振り、人工知能っぽい。既に世界はそうなっている? たしか受け止めてくれるAIと話すと人間を感じるというのをどこかで読んだような。

 

次。本屋に冷やかしに行く。100分名著フェアの一角があってにやり。「存在と時間」上巻しか持っていないから、下巻があればあるいはと思ったが、おそらく売切れ。上巻を読み終わる前にうちに来れば問題ない。冷やかしに行ったつもりが、美味しそうな本が呼んでくる。「教養としてのコンピューターサイエンス」。図示されているより文章の方が分かる。こういう、啓発本でもなく、新書でもない一般書が表に出てきたのって、このご時世になってからのような。この3年くらいでいっぱい美味しい本に出逢っている。何かのメカニズムが働いている?

 

 

5月2日の深夜から遠出をしてダーツに行くため、なんとなく服を購入しようという気分。無印良品に向かう。服は匿名性で良い。なんとなく目に入ったパジャマを即買い。今着ているが、肌ざわりが良い。あと、身体感覚として締め付けがないのは、精神的にも緩くなる気分。

 

ほとんどメンズの衣服のスペースがないのは需要がないからだろう。春夏に良い感じのカーディガンが在ればと思ったが、そんなものは無かった。色合いが好きなシャツを買おうとしたら半袖。半袖の服は何か無防備感があるから辞めたいところだが、買うことは買うらしい。ついでに長袖の他の色も買う模様。

 

少しだけ世界にお金を回した。僕がもっとお金持ちになったらもっと回すだろうな。ただ、何かを所有することに頓着が無い。お金だけばら撒くような回し方があるだろうか。寄付は善意である自分が返ってくるから良くない。そもそも持たないようにする限り金持ちにはなれないという。ミニマリストはお金を所持物とみなしているのだろうか、ふと気になった。

 

帰りのスーパー。肉とビールとベビーリーフと。食材はなるべく抑えておく。家には玉ねぎやらごぼうやら大根やらがあるし、連休で使わなくなるし。

 

帰宅。手を洗うタイミングで洗い物をしてついでに大根とみょうがを刻んでポリ袋に入れて塩揉み。服のタグを外して、パジャマはそのまま着て他のシャツは1回洗う。

 

干すときに見あげた空の雲の動きがほんとに美だった。低いところと高いところで逆に流れている。世界ってこんなに流動的だった。

 

そこから2時間ほど、お裾分けいただいた修論と「コンピューターサイエンス」を並行していただく。食べ合わせがとても良い。人の働きの極致である詩作と、人が創ったもう1つの人的存在の成り立ちと機構。なんとなく近いところがある。どちらもうごうごしている。

 

 

そろそろ戻ってきて。

 

この漂流文で、やたらと言語的に考えている感じに読まれているかもしれないが、素朴だとかなりゆるゆるである。言葉もてきとーだし。ただ、僕の感じはそれでもあまり変わらない。

 

雨が伝うのは水滴ではないのと同じ。

言葉教の宗派からは解放されて良い。

 

言語化された自分のメカニズムは素朴な自分を動かしていない。意志しないと動かないと設定してしまえば素朴が反発するのが普通。意志なんてしなくても自分は動くし、そこには交換も報恩も要らない。

 

宇宙人的な記事で、地球人だけが遅れているという話、なんだか分かりみ。持っている人が富んでいるとか、素朴な感覚論としておかしみがある。そういう風に人を留めておきたい勢力があるという説も眉唾ではないのかも。そんな風にしか動けないはずはないだろうって。

 

行動経済学だって、利他的な傾向を観測している訳で。

 

意志が指示して自分が動いているという感覚はコンピュータの観念と等しい。

指示しないことによって剥き出しになった自分は、ほんと楽しそうである。

 

僕がここで書いているときに考えている人っぽく見えるのは、ここがそういう媒体だから書くことによってしか伝う手段がないというだけであって、翻訳しているだけ。内外でこういう動きをしたということは、そういう感じなのだろうなって、言葉で当たりを付けているだけ。証拠ではなく、ただのカメラ・アイみたいな言語。

 

冷静に小躍りしながらお弁当のおかずを作っていますし。笑

 

 

修論。縦書きの文章には横書きの専門書とは違った味わいがある。世の中だいたい横書きだが、僕も縦書きで漂流文書きたい。

 

文字を意味で追う僕が最も読んでこなかった詩を学問する論文。味覚の練度が拙すぎて味わい切れてないのだが、人間的な営みの極致の感じがある。

 

行間を読むという慣用句があるが、詩の場合、言葉はむしろ余白の方に重点がある。修論では空間を問題にしている。詩的空間は、そこに綴られた言葉の意味にどれだけ余地があるかということ。「孤独」という単語を使ってしまえば、重ね重ね手垢が付いた共通感覚的な空間に縛られてしまうが、谷川俊太郎さんは空間を宇宙まで拡げて自由になる。

 

まぁ、芸術分野全体が、無い間(ま)を制作する試行であって、そこ感じられるのが人間の特異性であると言えそう。

 

日本人はそういうの得意なはず。だって、間という単語あって、あらゆるところに使われているし。時間、人間、空間、間隙、もろもろ。虫の声が聞こえるのもそう。

 

日本人に生まれた醍醐味。

 

 

この辺りで、おしまいか。

 

気分と世界は同値であくまで主観的だという話もあった気がするが、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い○○を。