なんとくなく緩慢な日中。駄々っ子のようにあんまり動かない。洗濯機を回して遠出に備えたら良かったが、現地調達でもできるから問題ない。基本的にはこういう時も放置している。無理に動かそうとしても動かないし、最低限のことはするから問題ない。
素朴な自己観。自分は評価の対象でないとしている感じがずっとあった。長く過ごした恋人さんには「自分は好き嫌いの対象ではない」と言ったことがある。ただ、場所取り人生劇における相対的な価値の低さによって、自分嫌いみたいな現実化になっており、うまく動けなかった。
好きとか嫌いの言葉は意味が多すぎるのもある。消費物としての好みとして自分を捉える訳にもいかない。おそらく、自分であることの適意とか心地よさを自己好みとの意味で扱っている。だとしても、あえて自分に対して好きという言葉を当てる必要もないし、当てることによって相対価値になるような感じ。
まぁ、もともと自己という意識自体が相対的ではあることからすれば適切な語彙と言えるが、個人的には自己を対象化するのは外界に対して規制がかかるから、していない。
いきなり思索パートになっているが、本日は世界での動きが存在としての動きに直結しており、区分けが上手くいかない。
好きな詩人に出逢いに行く日。
詩作における入口の石がひっくり返った。
シュールレアリスムの本に引用されていて、雷に遭った「左川ちか」さん。25歳で退場した年下の大先輩。苗字の読み方は「さがわ」が正式らしいが、僕はナカで最初に読んだ「ひだりかわ」さんと愛称で呼んでいる。漢字で書けば外からも文句はない。漢字は便利な感じ。
数日前、全集が出たよと教えていただいた。詩作界でもマイナーな方らしく、シュールレアリスムの修士論文を書いた人でも知らなかったという。活動期間が短いというのもあるのかもしれない。伊藤整と懇意だったとのこと。たしか火の鳥という小説を何処かで見かけたことがあるような。
出版社が何やら魔術めいた名前のところで、一般には出回らないからネット買えば良いとのアドバイス。楽天ブックスでポチったら一週間くらいかかるとのこと。ふと、駄々っ子のまま、大阪の書店で店舗在庫ある店がないのかと検索する。梅田の紀伊国屋がヒット。普段だと行くことを決めてからの時差がないはずだが、なかなか行かない。夕方辺りにやっと腰が上がる。
この感じ折に触れてあったということに思い当たる。楽しいことであるはずなのに動かないとき。面倒だから動かない時も似たようなものだが、面倒とはそもそも。
自己解釈。
これって、無意識において維持されてきた恒常性が壊れることに対する拒否感と、もっと高次の「感じ」が動けることを察知したことの対抗の模様。そこで動いてしまうと世界線が分岐してしまう。無意識はレール通りに動いてくれた方が処理する情報が少なくて済むから楽なのである。
村上作品風に言えば入口の石だろうな。世界が開いてしまう。
神話で言えばパンドラの箱、寓話で言えば玉手箱。
この文脈では気分とか感じでは動けないから、純粋な意味での意志としての選択が要る。僕は内外でお散歩して見知らぬ路地に入り込むことを是とする意志を自分で見つけたから、迷いなく迷いに行く。
梅田の人混みで想うのは、なんで歩行速度が同じなのに人は並行して歩くのだろう。これについては一応、視界が広い座標を無意識が求めるから気分的には追い抜こうとしつつ速度は変わらない、結果的にカオスになるといういう思索があった。移動しているから場所を譲るという意識は起こらない。
全集を探す紀伊国屋の道中、学生っぽい二人組がデリバティブ取引について話している。為替の差で儲けを得るのだとかなんとか。人文学棚にはなくて、文集の棚の近くにあった。6冊くらい平積みされていて、紀伊国屋の圧倒的書力を感じる。思想の自由市場ではなく、可能性市場ならぬ、インデックス性。
全集。ほんとに文字通りの全集で、公開されている言葉すべてを収録したのではという様相。詩だけはなく、書簡とか散文とか翻訳文まで載っている。この至れり尽くせりで3000円ちょい。本の値段の基準がさっぱりわからないが、出版した学者さんの熱意が半端ない。
ここからは、どこまで書けるか。書けなかったことは次の日以降になる。これが、この文章が日記ではないところ。
詩の味。僕は文字を食べる月の人のなので、小説の味とか論理的な文章の追い方は分かる。ここには一定のルールがあるのが共通項。
小説は頭の中で言葉により構築された世界が再現される。他人の小説の読み方って気にならない? 1人だけ聞いた調べだと、世界が再現されるのではなく、言葉を追っているだけだとのこと。たしかにこれだと小説は消費する情報か。
論理的な文章の極致は数学だし、社会科学で言えば法学。順を追っていけば理解できるのが論理の触れ込みだが、僕はこれを言葉で追うのは苦手らしい。論理の真理は、後追いできる過去に向けたものであって、別に一意な訳でもなく中身をどう捉えるかによって変わってくる。まぁ、成果を人生劇場における問題にするのであれば、この世界で生きるのも良いかもしれない。理屈っぽい人が全然理屈的ではなく、直感寄りなのも含め。
そうして、詩はどちらでもない。文字を追ったところで意味は読み取れないし、あくまで感じの言語界。説明の言葉が無い分が余白というより、世界に対して自由に見ている。ひだりかわさんの詩もよくわからないのだが、不思議と鳥肌が立つ。
では、僕の文体とは。
これを書くには、人間が意識できる「目的」は嘘っぱちなのではないかという綴りがないといけないのだが、本日は時間切れ。
僕は無目的に毎日書いておる。徒然草は赴くままとはいえ、一応テーマが設定されている。
ここにはテーマもないし、単なる散歩みたいなもの。変な路地を見つけたら向かってしまう。何処かには繋がっているからなんとかなるが。
目的を決めているのは自分が感知できる存在ではないとしてしまうと神様みたいなことになるが、僕はそんな神様が居たとしても運命論には準拠できない。
ここまで。
おやすみなさい。
良い○○を。