だんしんぐ

 

 

思索も散歩の一種。

 

 

だいぶスタートが遅くなった。また別の机で書いている。どれくらい書けるかは不明だが、とりあえず歩く。

 

 

何か夢を見た。左川さんの文章で、「夢は現実より感覚がビビットだ」というフレーズを見つけた。最後の一文は「最近は夢を見ない、現実が夢のようなものだから」。そういえば、人が見る夢の具体的な像って、視覚化できないから、言語表現しか当てにならない。

 

個人的にはここ数年でやっと夢の中の光景に色が付いたし、ナカでの感覚も拡張してきた気がする。夢が取るに足らないとしている人は、現実も大事にできないのでは。言い過ぎ。

 

さておき。

 

仕事がなかなか忙しかったのだが、別のことを考えていた。

 

 

楽しさのこと。僕を素朴に見る限り、ほとんどのことを楽しんで居る。狭くなるとなんだか嫌な感じだが、使い切る方面の酷使は問題なさげ。

 

ここで想っていたのは、僕は楽しさを外に表明するために楽しんでいないなというところ。表現力不足であると言っても良いことだが、楽しんでいるという評価は、外から見て小躍りしているとか笑顔とか、嬉しさを表明することと一致しているとは限らない。楽しんでいる他人を見てどうかということを考えてしまって、内に秘めるようにしている節があるのだろうなって。

 

だいたい無表情だし、他人を安心させるために表情を作ることもないし、それによって他人に何か伝達しようとも思っていない。楽しんでいる内面と、楽しんでいると評されることは完全に別のこと。

 

別のことであったとしても、では一致させても良いのだなとなってきた。結局世界は自分のものというか、自分の世界でしかないのだから、この、「評される」ことを気にする必要はなくて、もっと世界に小躍りして良い。

 

(普段やっていたらただの不審者だから、現実化のタイミングは図らないとだが)

 

本日は文字化のギアが低速なので(あと眠気も出てきたので)、そろそろお暇するのだが、もう1つ。

 

人間の効能に「目的」を設定するというものがあって、この観念は現実でも哲学界隈でも主流になっている。なんなら創作でも。

 

素朴にここには気になるところがある。ほんとに目的に向かって精神が設定されるのであれば、人間はとっくに神様になっているのではと。芸術学というか美学でも、目的によって創られているという観念があるみたいだが、目的として意識的に把握されるものによって創作物が完全にできあがっているとも読めなくて、この辺りの齟齬に人間の本質があるような。

 

しばらくここを煮詰めていきたい。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い○○を。