外壁

 

 

頭の中で思索を遊ばせることはなくても物理的によく移動し、遊んだ一日。

 

朝起きて、ホテルのバイキングを食べる。白ご飯、納豆、お漬物、ナゲット、レンコンのきんぴら、味噌汁、サラダ。オレンジジュース。ついでにアイスコーヒー非日常の食事空間。だいたいこういう食事のとき、和食でもオレンジジュースを選びがち。自分で買うことがないからだろうか。

 

CDショップ、本屋さん、ダーツショップ、牛タン屋さん、成城石井でお買い物をし、大浴場で足を思いっきり伸ばして浮かばせる。明日はドクターフィッシュに角質を搾取させる予定。

 

本屋さんでは、僕がこの前梅田の紀伊国屋で買った本が平積みされている上に、詩のカテゴリーにも置いてある。さすがのジュンク堂。詩が何ぞやという味わいは分かって居ないが、ぱらぱら眺めている限り、詩は文字で意味を構築するものではなく、ある瞬間で自分に響く景色の感じととても近いのではないか。「何が書かれているか」というテクストのみゃくらくではなく、心象を情景のように書き留める手段としての詩が在って、それを眺める為には文字をまなざすしかないみたいな。

 

書肆侃侃房という出版社だった。出版社によって傾向があって、一回認知してしまうと寄ってきてしまう傾向にある。世界に見えることは、無意識のスクリーニングがかかった上の客観だから、単に認知がスクリーニングの基準を変更させるということ。こんなの誰もが日常的に経験しているが、塗り替わった後にその前のことが記録されることが難しいというだけ。

 

そうして見たとき、詩の良し悪し、下世話な話、盛り上がるかどうかの違いって何があるのだろう。今流行る詩は暗い感じが多いようなイメージだが、といってもほとんど知らない。上の出版社から出版できるような人と在野の人の違いは何なのか。

 

門外漢からすると、自由の中にきちんと不自由があるのではないかという妄想。左川さんの詩もよく分からないのだが、なんというか、きちんと世界の外壁が把握された上での自由を楽しんでいる感じがある。濾過するために言葉(詩)を扱っている、ある意味他人事だから、景色として眺められるというか。

 

論理的に詩を説明するには詩そのものの認知を磨く必要があり、僕の今ではここまでしか書けない。ただ、何を書いても良い媒体ではなく、連綿と構築された世界がある気がする。人間と一緒。

 

ダーツの話。

 

このスポーツも内省的な対話的不自由な世界であってなんだか似ている。

 

久々にやったダーツは成績的には散々だったが、また練習できるような設備は整えてほくほく(散財)。そういえばというレベルだったのだが、僕が止めたのはイップス的に腕が伸びずに的の外に外れてしまうようになってしまったことだった。その症状がちょくちょく出てきていた。

 

普通にてきとーに投げても的のどこかには当たる大きさなのに、何故か指が引っかかって外に落ちる。それが恥ずかしいと外から見られるのが怖いみたいな、自己との対話ができていていない。体と精神の一致って基本的に不可能なこと。現実世界はその精度が限りなく低くても良い世界だから、スポーツ選手が称えられることになる。

 

「文系」と表記されているカードを購入したので、練習場所が見つかって精神と肉体の一致をすり合わせる未来がある。誰かと勝ち負けを競うとかより、自分の中でどうかの方を気にする方が合っているらしいし。

 

そもそも自分の体は思い通りに動いてくれるようなものではない。

とすれば、言葉(表現)が当人と一致しているのかというのも微妙なところ。

 

精度より練度なのではないか。

 

僕がここで書いていることはそもそも言葉としての外壁があるが、個人的にそれほど不自由を感じてない。なんでも書いて良いと言われた途方にくれてしまうが、それは書けないのではなく、どうあっても在る不文の外壁が見えないから、逆に不自由になってしまうことによる。

 

なんでもという枕詞にほんとに何でも許される気がしない。

 

僕はもう法律家になることは辞めた。ここうん十年読み続けてきて、言葉の語義の延長を追うのは狭いと捉えてしまったから。言葉で設定された外壁としてのルールは途方もなく広くて、それを把握するためにここまで時間がかかっただけであって、個人的に社会的に成功するとか、富を溜め込むみたいなことを求めてないことにも気付けて良かった。

 

外壁があると認知できることは、知らない世界があるという意味ではなくもう少しリアリティがある。これは常識論ではなく、あくまで体感の話。特に誰かと共有できるものでもない。

 

学問であれ説明書であれ詩であれ小説であれ、全て日本語という言語で書かれているとしても、全て他言語なのかもしれない(個人的にはそうであるという味わい)。詩という言語を認知できたから、言葉への扱いが変わってくるに違いない。

 

僕が詩的言語で書いたらほんとに誰にも伝わなくなる予感。

 

愛しいいびき(幻聴)とか。

 

自由であるということは、不自由の外壁をどれだけ認知しているかによる。

ほんとに自由だったら、自由であるという言葉自体が要らない。

 

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い○○(GW)を。