内外

 



 

思想のカタログ歴史のループ、選ぶも抜けるもしたい次第。

 

 

ダーツの疲労は居所だったらしい。いつものように早めに目が覚めて二度寝。夢も見ているのだが言語化しようとしないところを見るに優先順位が低いらしい。まぁ、現実が夢のようなものだし。

 

アラームの30分ほど前に目が覚めてまだうとうとするかとなった。隣人がベランダの窓を開ける音が聞こえて、だいたいこのあと洗濯機が踊り出すから、そうなったら起きるかと思いながらごろごろしている。

 

そこらへんに置いてある「忘れない読書」で読書を習慣付けるためには条件付けをするようにすればという話がトリガーになったのだろう。ふと、アラームが鳴ったら、洗濯機が回り出したら起きるという条件付けに縛られている自分に不自由さを感じる。なんなら腹が立ったと言っても良い。20分前くらいにアラームを止めて起き上がることにする。こういう発想が起こる世界線はここしかないのかもしれない。

 

 

些細だが重大な反旗。小さい変更がないところに大きな変更はない。いやあることも在るだろうが。条件付けから離脱から進めると、この土日でまたダーツに行くことを、体の回復ありきにすることは条件付けなのかとなる。いや、これは状況に合わせていることであって、条件ではないのでは。条件によって行動することは外在で、状況に合わせるのは内在。

 

外在的な条件によって行動を変えるのは、0か1かのコンピュータ(機械)的な行動規範になる。別に機械であることに嫌悪はないが、自然的な人間からは離れてしまうのはたしか。日常でも仕事をするとするのはなんとも。

 

たまたまnoteに流れてきた、仏教を下敷きにしたらしい現世論で、この現実こそが極楽浄土なのではという説。しっくりくる。修行の階層みたいな段階の最上階辺りに、日常に流れる景色を味わうというのがあって、瞑想もしていないのにそうなってしまっている。いや、この日記群が瞑想めいた効能があるというのは在りうるところ。瞑想っておそらく超意識的な自分の存在と向き合うところだと思われるし。

 

 

語られうる自己は主体だが、素朴な自己は主体ではないのではないかという哲学がここ何日かぐるぐる回っている。人は自分の物体的な存在もすべて把握できることもないのに、確立した主語を解釈して語るが、自己は主語というより目的格(おぼろげな文法論)の方が近い。この人生劇場で、自分を楽しむとか自分で楽しむとかでしかなく、自分が楽しむとは何かずれている。

 

本当に自分に没頭している瞬間には主語は消滅しているはずだし、ここまでくると、自分という器は世界を取り入れる媒体ということになる。これによって個人であることが薄まることもない。むしろ言葉が要らない存在として濃厚に感覚される訳で。感覚という言葉でも遅いか。

 

楽しいは楽ではないと思うのだがなんで同じ言葉が当てられているのだろうな。

 

 

さておき。

 

出勤ルートのピンクの絨毯、掘り返されて土が剥き出しの畑になっていた。そろそろ水が張られて田んぼになる。このタイミング、景色としては全然綺麗ではないのだが、個人的にはとても好き。移ろいの舞台裏みたいな感じ。ピンクの絨毯は畑の肥やしになって稲穂を育てる。循環。歴史のループ。

 

仕事も循環ではあるのだが、代謝があまりスムーズではない。人間が純粋な自然でも機械でもないことによるという感じ。仕事が楽しいものではないという観念も基本的には外在的よな。だから価値がある、ゆえに対価として金銭を得ることに価値がある。

 

お昼休憩では、公園でお弁当を食べる前に煙草を吸っていたら、真っ白はとぽっぽがやってきた。いや、貴方にご飯はあげませんがという感じだが、なかなか離れない。鳩とお話するのはきっとナカタさんでも無理。鳩はなにをもって人に寄るのかも分からない。職場の人は群がられてつつかられたという大人気エピソードがあるらしい。僕なぞまだまだ。

 

鳥は景色だろうか、それとも存在か。

 

 

なにやら壮大なことがイメージされる出勤の道中。思想のカタログはそろそろ出尽くしてしまって、あとは人がどれを選ぶかという世界になってきたのではという世界になってきたのではという観。歴史で言えば今まではだいたい選ぶ余地はなくて、それを世界とすることを受け入れるか反逆するしかなかった。信仰も選んでいるというより寄るしかないといういう感じ。医学もある意味信仰の範疇になりつつありそう。

 

物体的な生命を保続するために何かを選ばざるを得ないという世界観からは解放されているという意味。村八分とか魔女裁判みたいなことがあるとしても、物体的な人が処刑されるような世界ではないし、思想はどれを選べばより楽しいのかという世界になっているような。

 

僕のいまはむかし、選ぶことがとても難しかった。飲食店に行って何を選んでも良いよって言われたら迷ってしまう。ある時選んだ美味しそうだなと思って選んだのが「レディースセット」で、母親含め壮大に弄られた。これを覚えているのは、僕はそういう側になりたくないという銘記。なんで女性用のメニューを男性が選んではいけないって論理的に説明ができるはずもない、ただのこの社会がそうしているということでしかない。

 

僕が居酒屋とかでも自分でメニューを選ばないのはここ由来かとなりつつ、そもそも食べる物は何でも良いという傾向があるのかもしれない。ここの衝動は微弱だからややこしい。

 

僕はいまのところ子を成す予定はないが、子を否定する親にはならないだろうなと思う。感覚が付いていけないことを受容できるか突っぱねるかは器に依りそう。

 

で、自分の器ってそもそもなんなのだろうということが気になっている昨今。

何か社会の外在を条件としてないか。

 

(散歩が激しい)

 

そうそう、哲学少女が歴史のループの話をしていた。関係する具体的な人が変わっても、相手の性質が似たようなことになる。これって他人の性質が共通項である訳ではなく、単なる引き寄せの法則っぽい。

 

自分の性質が変更されない限り、同じような人は常々現れる。

 

僕は歴史のループからは離れてきた模様。性質が素朴なっても関われる人って居ないと思っていたのだが、これも旧来の世界観だったらしい。

 

別に更新しない世界線でも楽しいと思うが。

 

おやすみなさい。

 

良い○○を。