めんたる

 

 

何も思い付いてないが困ってはいない。道筋を辿っているうちに迷子になれるに違いないから。

 

腰が痛い。

 

 

だいたい一定の時間に目が覚める。午前中はややゆっくり。ご飯を炊いて納豆と食べるラー油をおかずにいただく。ご飯をあまり食べなくなった。ご飯に他の作用を求めないのであればそんなに要らない。おやつが美味しいのは美味しいからであって、ストレスが溶けることではない。

 

その分なのか腹筋が溜まる。仕事で声を出すときに意識して力を入れている。喉に負荷をかけないように。体を動かす仕事をしていたときより固い。ビールばっかり飲んでいるのに。ほんとの酒呑みは痩せていると聞くが実際どうなのだろう。お酒をお酒として楽しまない人は酒呑みではないのかもしれない。

 

昼くらいには漫画を読んでいた。最近のお気に入りはオメガなんとかとケンガンアシュラと、イニシャルDと、ベイビーステップ。ジャンプ系ではハイキュー!とかなんとかトリガー(タイトルがたまたま出てこない)、ライジングインパクトとか。漫画を買い出すと紙重量で部屋の床が抜けそうだからやっていない。アプリで一話ずつはもどかしいが、かつてというか週刊誌であれば当たり前のことよな。次が気になるみたいなところからは離れている。その待ち時間ですることがいっぱいあって、待ち遠しくなる暇がない。

 

漫画に一瞬迷子する。

 

僕は痛快なカタルシスを得られるよりも0と1で切り分けられない若干暗がりの漫画がもともと好きだった。ドラゴンボールも面白いと思うのだがオタクにはなれない。それよりもダイの大冒険とか、封神演義とか、幽遊白書とか。あぁシャーマンキングも好きだった。ベルセルクとかバスタードもそうだが、共通項は単純に敵味方という二元論ではないし、悪者をやっつけて円満とはならないところ。

 

ちなみに、僕の好きな漫画家は藤田和日郎さん。あだち充さんもなかなかだが、藤田さんは人間をとは何ぞやを哲学するために漫画という媒体を用いているような感じ。好きな漫画としては「からくりサーカス」と「うしおととら」が拮抗している。ストーリーは違うのに同じ感じ。

 

あと、スポーツ漫画も好き。サッカーしないのに「アオアシ」は最新刊を追っている。だから「ベイビーステップ」も部活でやっていたから好きな訳ではない。「ハイキュー!!」もそうだが、登場人物が全力なのが良い。全力は真剣とか真面目とは違って、きちんと自分であることに傾いているという意味。「ベイビーステップ」の主人公は何においても全力で生きてしまう人物で、てきとーに手を抜きながら生きる人からはみ出してしまう。でもテニスというフィールドでは全力に応えてくれる人ばかりで楽しめるというシーン。

 

全力で生きることを辞めてしまったのはいつだったろうと自戒が起こって面白い。中学校だか高校のときに創作文を書くという課題があって、「うしおとら」の秋葉流という人物を下敷きにして書いたことがある。なんでもできることによって周りの人からやっかまれることになり、「自分は全力を出してはいけない」と制限してしまうという人。先生には硯君はそんな感じだよねと言われた。手抜きがバレていた?

 

もちろん僕は天才ではない。ただ、自分の目一杯がまだ分かっていないところはある。果たして何がしたいのだろうか。可能の配分をもっとしたいのか?

 

人の本質が本能でも理性でもないところに在るとしてしまうと、何をどう決めても良いのだよな。大学院に入り直して何かを探求するという世界線もアリ。

 

そうして迷子から本日ルートに戻って来て。

 

ダーツライブの参加者が居なくったことを確認し、今日は空いているだろうなと出発。午前と午後の中間くらい。エンジョイ勢やらガチ勢やらが視界に流れつつ6時間投げていた。イップスの動きはまだ時々出てくる。肉体的メンタルはよわよわ。スコアも全然伸びない。でも、楽しいことしかやらないようにしているのだから、するということはそういうこと。

 

人は基本的にきっかけ(発端)と結果を重視するが、僕は過程の方が大事。過程というより、持続か。人が事物として認識できない「いま」。

 

まぁ、投げ振りは随分とまともになってきた。他の上手い人を見ているとやはり型が安定していない。安心できる型を試行錯誤しなければ。あえて腹筋に力を入れてみることはしていない。マスクの下で口角を上げてみるということはやってみた。体が弛緩して良いのだが、気を抜くとすぐにデフォルトの無表情に戻ってしまう。まぁ、何がなくても笑っている人物って社会的には不審者だし。中身で笑うより、現実化して笑顔になる方が体は緩む。

 

まずは両側の台を気にしないようにするメンタルを構築せねば。

まるで現実の肉体的メンタルのようだ。気になることは問題ないが、気にして影響されることは問題。

 

あんまり激しい運動でない限り体力は気力と等しい。

この体の動かし方、とてもいまの自分に合っている。

 

区分けしないからキーボードの扱いにも反映している模様。

間違えないように打てば打てるほど、文字数が増える。

 

バドミントンしたい。

 

精神的メンタルは修行僧くらいにはなっていると思われるが、この境地は現実的側面では全く出てこない。あくまで個人的な領域であって、それによって現実が上向きになるということではないし。

 

ひとりで充分であるから他人に可能を分けられるのであって、もともと他人の不在が前提になっている。存在をなんとするかという哲学の起源みたいな話になるが、個人的な結論とすると、存在は客観的な事物ではなくて、観測しているから在るという証拠がないあやふやなもの。

 

哲学者だったらここを言語で突き詰めようとするのだろうし、ふつーの人は存在をデフォルトとしてインストールしているから気にならない。とはいえ、ふつーの人は別に客観で生きている訳ではなく、それぞれの学問やら宗教やらの上澄みのまどろみの中で生きていることに気付いていない。

 

今やよく分からないのだが、所与のものがあるとできること自体が何かのインストールではなかろうか、みたいな。もちろん、インストールされうることが人間の機能だし、でないと人間ではない。物体的だけど。

 

そういえば、読書論の本で、「脳は文字が嫌い」というフレーズがあった。たしかに今や文字の表現は前時代になりつつあるかもしれぬ。会話であればLINEが繋げてくれるし、言葉で表現するのは迂遠の散歩道みたいな。

 

僕は迷子好きだから言葉が好きで、これで迷子してくれる人も好き。

 

はいおしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い○○を。