可能的遊び

 

 

悲愴な皮相を突き抜ける。先には任意的な晴天の空間が拡がる。

何もなくて何でもある。親指の皮が剥がれたピンクに透明な液体が浮かんでいる。

 

 

和歌のリズムも分かり易くて良いが、詩の中にある音韻に留まらないリズムも心地よい。北川さんの詩によって左川さんの詩の情景もなんとなく心象に描かれるようになった。

 

詩と夢の像がとても近いところにあるように感じる。

和歌はある意味写真っぽい。時間的に切り取られた世界を写す像が、それ以外の心持ちを表現する、みたいな。

 

 

やたらと寝た。トータル9時間ほど意識が飛ぶ。夢もいくつか見たような。夢を忘れないようにするためには、夢から醒める瞬間の現との境界の意識を掴んで離さないこと。そうしないと像から解きほぐれて断片的なイメージになってしまう。これはこれで内側には浸透しているはず。ただ、伝達も表現も解釈もできない。何か移動をして人と会っている夢。どちらも好きなのかもくらいしか解釈できず。

 

 

夢の解釈というか、夢ルールも人それぞれだろうな。いにしえだと夢に人物が出てきたらその人が自分に会いたいのだとしてみたり、会えない人が出てきたりするのは意識がその人物を存在として重く置いているとも言える。ここらへんはユングさんの専門領域。僕の夢解釈だと、「いま」の僕の世界に存在する人は出てこないというのがある。意識はしていても、夢のような空間で逢う必要もないという判断か。

 

夢を眺めるのは意識なのか無意識なのかは観測できないが、おそらく本当は寝ているときに流れている情景はもっと無作為で、その中からピックアップして編集し演出する誰かがいるのだろうと想像する。見るより視るに近いもの。見ることは生来的だが、視ることは学習が要るって「共通感覚論」にあったような。

 

 

視ることができるのは見えるもののうちの一部。

 

 

さておき。

 

仕事は省略。書いてもあんまり面白くない。個人的には何か毎日発見があって楽しいのだがきっと仕事にそんな楽しさを求めている人はあんまり居ない。発見より維持が大事なのが法人の存在理由である。業績の向上もあるが、労働者の1人1人にそんな役割はない。

 

とか言い出すと、帰り道の新興住宅街で家が建つだろうスペースに昨日シロツメクサが蔓延っていて、あれいつの間にこれだけ伸びたのだ、あぁGWの辺りではこのルートを通ってなかったから、その空白によるものかと発見するのも何やらおかしくないか。

 

小学生の自由研究ばりに世界を過ごす自己。

(もちろん外的には良いおっさんなので外にはあまり出していない、語れる場もないし)

 

そうして帰り道、普段しないことをする。

家に帰ったらそのまま洗い物をしながらお風呂を溜めるから、道中の自販機で缶コーヒーを買って、暗がりの公園で2服する。これをしているときに、かつての僕にこれを現実化する選択肢はなかったよなぁって。可能(見える)な世界であったとしても、実際することはなかった。

 

ここで僕の生き方が、向上心があると捉えられることを一瞬思索する。向上心という言葉はとても苦手なのだが、ふつうに生きているとそういう風に捉えられる不思議。(不思議という感覚は、身体感覚からの隔たりによるらしい。by「共通感覚論」。)

 

別に向上を志向して日々生きている訳でもない。本を読み続けたり文章を書き続けたりすることもそうじゃない。目的をもって動くと目的に一直線になることになるが、そういうことができない。noteが何日連続投稿おめでとうとか言ってくるのが鬱陶しかったのもそういうこと。

 

ざっくり言えば、初期にインストールされたレールから迷子になりたいがための挙動でしかなく、無目的に人生劇場を散策できるようにするためにはこういう訓練が必要だったという解釈。

 

できうることは想像力があればでき放題だが、その中でほんとに現実化できることに絞れば思いの外狭い。僕の可能的世界観は「できるかもしれない」ではなく、もっと手に取れるような身近なもの。

 

1例、いぐざんぽー。

 

去年の試験日、試験がなかったら行きたい文学フリマがあった。今の感じであれば行けたし、行ったら世界線も変わったかもしれない。かもしれない世界では世界線は動かないし、別に後悔もない。この1年を過ごさなければいまの世界観はないし。

 

そう考えると、試験については折々の人がほんとに貴方はそうなりたいのかと問うてきてくれていた。ただ、僕は自重としてそこから離れられないという世界観で留まっている。

 

法学との関係の丁度良さは、最新の裁判を読んでふむふむするくらいの感じ。ルールの中ではあまり生きられないし、勝った負けたで人が掬われることも無いし。

 

今年の試験は受ける体にして受けないのだが、これも外に表明して良いのかも。

できそうな世界線。投資してくれた分は僕が儲ける世界線があれば全部横流ししますわで良さげ。お金要らないが、時間は守りたい。

 

暗がりの公園で、意識から存在的な自己にとりあえず、「あなたは何がしたい?」と常々問いかけるのが良いのかもなと思った。「したい」を外から拘束して自分で生きることがほとんどできて居なかったから、内部が凝り固まっている。

 

この楽しさは他人にも波及して良いのかという「できそう」な世界線。どれだけ解放しても人を蔑ろにする世界線はない。損なったり奪ったりすることは快にも幸にもならない。

 

可変的な世界で生きる限り他人を否定することは在りえない。

 

僕は他人の世界は肯定的に捉えるのだが、貴方も私と同じ世界で生きているでしょうって同一化された途端に萎えてしまうところはある。僕の存在と貴方の存在はそもそも別の宇宙なのに。

 

基本的に1人で良いし十分だが、それでも楽しく肯定できる物体的な存在が嬉しい。

 

世界ってそんなものでは。

 

(この文章を読んでくれる人の中に直に遊べる人ってほとんど皆無なのだろうな、まぁ良いけど)

 

 

おやすみなさい。

 

良い遊びを。