古今和歌集で好きなのを見つけた。
「月夜にはそれとも見えず 梅の花 香をたづねてぞ知るべかりける」
和歌にも像が浮かんでくる。お洒落というか、人間の客観的に認識ではない「間」が文字によって表現されている。光と闇の間と、色と香の間と。人間の存在は間に在る。
むかーし、中学校だか高校だかで、古文の中に歌があって解釈がアクロバティックで全然分からないなと思っていたのだが、これって結局のところ、僕の想像力不足だった。実体験としての経験則に根差している想像力は実生活とか、現在の小説を読むときには大事。これは自分とは違う相手を許容できるかという器にかかる。
詩歌からイメージを投影するのは時空を超えた想像力であって、読書体験という実体験とは別の枠になりそう。大昔の人が何をもってこの歌を書いたのかなんて今を基準とすれば不可能だが、人が時空を超えられる存在でなければ昔の表現が今まで残っていることはない。表現が過去になったときに、残る何かが普遍性。
個人的に「詠み人知らず」という響きが好き。
さておき。
本日は何をするかと観測していると、お掃除をしていた。こびり付いた汚れはどうしようもないが、なんとなく綺麗にはなったような。
なにせ1人で生活していると掃除の必要性を感じない。埃アレルギーでもないし、頭の中が混沌としているために部屋の本が整頓されていなくても全く問題がない。生ごみは悪臭源になるから問題になるが、毎日弁当を作ってシンクを稼働させている(当たり前?)から、そういう意味での汚れは気付いた時に洗えばすぐ取れるし、生ごみは速やかに捨てている。
(油汚れは、、、、)
まぁ生活って汚れるものだから、汚れない生活は見せる為のものか必要に迫られてか、ホテル暮らしでもしないと無理だろうな。汚れていないように見えるということには傾注できない。割とやり始めると終わらないという面もある。整頓したくなる人格と生活している人格は別ものだから、本を綺麗に並べたところで、生活的に取りやすいように混沌になるのだが。頭の中もどんな時でもとりだせることより、必要なタイミングで取り出せれば良いから博識にはなれない。こういう無軌道にした方が上手く動く。
何か考えていた気がするが、なんだったっけ。
そうか。外に対する存在の話。
「共通感覚論」で、感覚の統合に視覚あるいは触覚が置かれるのは、言語化がし易いからではという話があった。言葉を存在の媒介にする以上、ことば化できるものが存在になる。味覚とか嗅覚は共通の言語にできないから、誰からから感覚される意味において存在にできにくい。
分かるけど、分からない。
本日美味しい唐揚げを作った。たしかにこれの味付けを言語化してみたところで、この唐揚げを作った僕は存在化されないような気もする。だって、特に誰にも感知されないし。
感知されないのがなんで存在にならないのかというのもなかなか根深そう。存在認知をされるために言葉を扱うというのは、やや不純なような。
味覚と嗅覚は個人的だが、これこそ個人的な世界観の真骨頂のような感じもあり。例えば自分の生活空間に自分でない匂いがあるとか。
結局言葉の取扱いみたいな話。
僕は世界にこの僕が認知されるために言葉を取り扱っていないから、読者が増えないことに対して(なんなら読んでいる人の反応すら)どうでも良い。ただ、間にしか存在しないという世界観からして、ただ唯我独尊的に書いて満足している訳でもなく。
表現に満足できればただ書きつくれば問題ないはずなのだが、この人生劇場を伝達するという向きもあるみたいでややこしい。別に伝えたい事実が在る訳でもなく、伝えたところで有用でもないのに、この感じは何なのか。
お裾分けがまかり通るのは、分けられて何か有用であるという世界観ありきであって、これを書きつくることで、世界にとって有用であるという根っこがないと無い。世界に表現したいという衝動はないのだよな。それで毎日書ける不可思議。
ここまでくると、ほんとに言語化したいのは日記ではなくて、日記的文章は修行でしかないのではという解釈が起こって来る。文字化している以上存在ではあるが、存在観を醸すために書いているわけでも無く。
じゃあ何がしたいの? とは問いかけていきたいところ。
僕の定義だと、したいことはしても良いことではないし、理想的な世界でもない。ただの運動みたいな。ほんとうに何がしたいのかってなかなか辿り着けない。
今日は不協和音(良い意味で)があるのでここまで。
はい、おやすみなさい。
良い世界を。