知るべかりける

 

 

本日のお供は京都の地酒、「風人雷神」。原酒で度数17%だがアルコール味より口に拡がる凝縮された旨味の方が濃い。日本酒の入り口の石もひっくり返りそうだ。土地土地の地ビールに地酒が加わる。

 

本日は雨だったが、お構いなく出かける。まずは嵐山、の前に梅田の紀伊国屋書店。左川さんの本が並んでいる辺りを観覧。現代短歌というジャンルについて知る。本屋ほど世界が鏡であるということを示している存在はないと思う。自分が知っている、知ろうとしている本しか現れないところ。

 

阪急電車で桂に向かい、乗り換える前にホームのベンチに座り梅田で買ったお寿司をいただく。ウニ美味。

 

乗り換えた後に嵐山の1つ手前の松尾大社に着く直前、川縁に花畑を見つけ衝動に任せて降りてみることにする。雨の概念にぎりぎり含まれるか含まれないかの境界のような振りぶりで、1つの傘を差したり閉じたりしながら1駅分の散歩。ちょうど川沿いに公園があって、この草は食べられるだりなんだりしながら、シロツメ草やらたんぽぽの綿毛やら、名称不明のアザミの小さいバージョンのような花を眺める。

 

散歩道、おそらく川の中に居るような、雀でもカラスでも鶯でもない、かなり大きめの鳥が草むらをうろうろしている。あいつら何しているのだろうか。川魚に飽いてミミズでも狙っているのだろうか。そんなこんなで目的地に到着。

 

平日は閑散としていると思いきや、修学旅行生が闊歩している。そういえば僕も中学校の修学旅行は京都と奈良だった。嵐山ではなく清水寺とかだった気がする。ついでに高校の修学旅行は関東で、ディズニーシーで同級生の男の子と耳を付けてうろいたという余計な思い出も掘り返される。これだけ見れば陽の者だった。

 

そろそろ文字通りの雨、むしろ嵐めく嵐山。くだらないダジャレみたいな表現だが、それはともかく、激しい雨に打たれる川面が好き。ミルククラウンめいて。

 

ひやし飴をいただき、地酒の試飲と購入。筍のお漬物を試食してこれは買うべきとなっていたのだが、タイミングを逃してしまい、そのままバスに乗ることになった。市バスの揺れは安眠を誘う。電車の揺れより寝やすい感じ。高校時代バスで通っていたこともあるのだろうか。英単語テストのために単語帳をめくる曜日はあったが、他はだいたい寝ていた気がする。

 

お洒落な京都駅の地下で出汁茶漬けをいただきほっこりし、大阪に戻る。新快速だと一瞬だが、人混みを避けて普通でゆっくり。旅はここで終わることもなく。

 

なんとなくここのところラム肉の舌になっていたため、新大阪からの近場でラム肉が食べられるところをグーグル先生に聞く。西中島南方(新大阪から1駅)にあった。新大阪から電車には乗らず、濡れながら歩いて到着。おそらく繁忙期の花金の前日だからか、他にお客さんは居ない。ただ、店員のお姉さんの接客が丁寧というか優美。煙草吸って良い焼き肉店の接客とはそぐわないのが逆に調和、みたいな。

 

ラム肉も僕史上の美味しさが更新される。前回食べた食べ放題の野生の臭いが全くしない。この味をどう表現するか。口に入れて噛み締めるとまずびっくりした顔になり、笑顔が拡がる、という感じ。

 

その後は、ダーツ。試飲した日本酒の酔いは醒めていたが、ラム肉専門店で飲んだカールスバーグ(これも美味い)の酔いの残滓があったからか、無心の前半はとても調子が良い。酔いが醒めてきた後半は心がとっ散らかってうまく行かない。ダーツって同じ動きをすれば入るといういわば当然の体の制御であって、スポーツ全般がきっとそういうもの。ただ、僕の素朴は体を機械にすることに対するやや反発がありそう。ここはまぁ良い。

 

その後はカラオケを少しして、たこ焼きをお持ち帰りして帰宅。まぁよく飲みよく遊びよく楽しんだ一日。その後にお風呂読書してこれを書いている。

 

これら時間がないと生きていけないということは無いが、存在としての素朴な僕の構成要素としてここはとても大きな比重がある模様。楽しいから書いている訳で、それに表明されなくても楽しんで読んでおられる方が居るという可能性も楽しい。noteのアクセス数しばらく見ていなかったが、宣伝も相互もないにしては凄いことになっていた。楽しんで読んでくれる人が居たらそれは楽しいこと。可視化されなくても僕の中の誰かがきっと感知してにまにま笑う。

 

「楽しい」は交換も与えたり貰ったりもない自由な感じがとても安らう。

比べようもないし。存在が文字なのか物体なのかというと、微妙な感じ。

 

そういえば、他に寄る辺がない存在だった中学時代、隠れファンが居たという都市伝説。

1例好きだったと過去形で報告された症例がある。

 

日本酒がブレンドされているから本日の日記は音韻のリズムが良い感じなのでは(誰も傷つけない自画自賛)。

 

 

 

そろそろ哲学パートか。

 

意識的に自分を生きている人は他人に寛容だなという話。

 

 

現実の移ろいを意識することは、外界を情報として覚えていて再起できることではなくて、記憶にしないこと。記憶するって要は自分の歴史ではあっても、いまの自分の存在から他所事にした、情報でしかなくなる。

 

これって割と全存在的に拡がる。何かを選択するときとか行動するときに他責にできるのは存在外の要因という情報に依っているということになって、存在と現実が乖離する。もちろん、従わないといけないルールはあるけど、そのルールをほんとにきちんと最低限のルールに合わせている人はそんなに居ないはず。

 

ルールから外れたくてアウトローになるというのは論理的にはルールに囚われている。

 

人が経年劣化するとか、人は忘れるものだとかもある種の舞台設定による訳で。

 

僕個人の観測だと、人は全然忘れなくて、ただ、任意的に取り出せないことを忘れたとか居ているだけ。これは人の話を聞くときの反応も然り。自分とかけ離れた言葉に対して想像力が働くかどうかって、知識が多いかどうかに限らない。知識をどう扱っているかにもよるが。

 

こういうのは、意識的に訓練(お勉強ではない)をしないと無理なのだが、僕の素朴な発話はからなり取っ散らかっているから、着いて来られる人しか無理。もちろん僕はだいたい着いていけるし、現時点で届かなくても学習して進む。

 

これを、ネガティブ的な人格と解釈するのが間違いだった。いまの自分が気に入ってないなんてことはなく、これからの自分も楽しんでいるだけだった。

 

自分が無いなんてもはや言えないが、これは言語化とか数値化できるものでもなく、ただの素朴な存在として。

 

僕はもっと自分の言葉で生きて良い。

 

意識的な存在として面白い1例。でかけ際に細い筍が生えていて、それを言ったら、ほそっこいから食べられないと返される。その8時間くらいに遊び尽くした帰り道で同じことを言ったら、覚えられていて同じく返される。

 

個人的に他人に何も期待しないからなのかもしれないが、この取るに足りない光景の意識がワーキングメモリに残っている人って凄くないか。当たり前なのか?

 

取るに足りないことであって、覚えられておろうがおらまいが当人の存在は変わらない。

 

でも、なんだか楽しい。

 

はいおしまい。

 

おやすみなさい。

 

 

よい意識的世界を。