スーパー現実感

 

 

弾けるような笑顔が可愛いみたいなことを言う(そこまでは言っていない)。貴方の真似をしていると返される。そんな鏡面世界線にたどり着いたらしい。言葉は後追いなのか先駆けなのか、いずれにせよ存在とぴったり合うことはない。哲学上の最大の謎であるらしい、認識と存在の関係と似ている。

 

 

さておき。本日もいつも通り楽しい現実と非現実の境界。天気のぐずりと気分は連動させてあげない。

 

普段全く見ないドラマをだらだら見てから昼過ぎに家を出て、まずはバッティングセンター。40球ずつ。前回の対策で軍手をしたから皮は剥げない。人間は学習できる存在だという当たり前過ぎる持論。ただ、あえて学習しないようにできるのも人間。可能的動物。

 

そのあと、最寄りの古書店ではなく通算3回目のこじんまりした新古書店を紹介する。当たりを引く。「シュールレアリスムとは何か」。入門した本は社会学的観点の本だったらしい。これはこれで左川さんを引っ張ってきたから必然というか偶然というか当たりの世界線

 

その後スーパーで食材、100均で食器と包丁研ぎを採取して帰宅。帰り道で何故か何気ない蜘蛛に首筋を噛まれ、スパイダーマンになりそうになる。ならなかったけどちくっとはした。

 

もはや〇ご飯という時間の名前が付かない頃に食べたメニュー。豆腐ハンバーグ、マグロとセロリの和え物、長芋と筍の水煮のわさび漬け、にゅう麺。どれもとても美味しい。レシピはなんとなく盗み見た。感覚的に料理を作るのは世界を非言語領域に感覚的に感得している感じと読めるのだがどうだろう。言語記述を視覚的に捉えるのであれば、塩少々って客観的に何グラムなのだってレシピの記述が読めなくなりそうな。

 

 

そもそも、言葉の捉え方って当人の現実の認識、ひいては五感のうちどの感覚を支点にしているかによりそうという僕哲学。現代における二大巨頭である視覚と触覚についてベースになってると思うが、やはり味覚が強い。味っていったん基準があって、それが最初の文化としても、いくらでも開拓できる。

 

例示だと、セロリとビール。最初に感じた味はどちらも人間が食するものなのかというくらいの拒絶観だったが、いまやどちらも好物だし。

 

味覚で世界を捉えることのメリットは、文字化には馴染まない感覚だから文字そのものを存在としなくて良いし、何より他人を否定することができなくなる。それぞれの文化があるよなって。食のタブーって、味覚の話ではなくルール(規範)の話であって、規範は視覚的な言語ないし発話によって記述されていることを学習している。

 

食の作法もそう。僕は一桁年齢の時に叔父の結婚式で皿を舐めてしまったことを笑われてそこに母親も含まれていたことは忘れない。穏やかな笑いだったとしても文化の外の人にされたこと。箸の扱いとかは感謝しているが、いつも馬鹿にされていた感じがある。〇(本名)は箸の扱いが汚いって。

 

ともあれ。

こんな感じで哲学パートへ。

 

まずはドラマの話から。

「大豆田とわ子と三人の元夫」を鑑賞。言葉遊びがとても面白いし登場人物をお作法の人格から外すのも上手い(美味い)。そして久々に見た松たか子はなんか瑞々しい美人だった。

 

「オーガニックのホスト」みたいに自然とモテるのではと疑義を提示された。たしかに面倒でなさそうなところに惹かれて、それによって飽きられるというのはあった人生史だから似ているっちゃ似ている。僕の為に人の世界線を変えようみたいな好意ではないし。

 

世界線がテーマだとのこと。たしかに、色んな選択肢があって、選択を誤ったのではないかという悩みがある人達がいっぱい出てきて、いや、今が一番良い世界線なのだという世界観が表層。深層には過去より「いま」が大事という感じがある。最終回におばあちゃんの恋人である女性を持ってくる辺り、世界線はお作法ではないという味なのだが、なんとなくまだ言葉が追い付いてきていない。

 

 

個人的に好きなのは、言葉の掛け合い自体を特に関係としていない関係が構築されているところ。言葉は証拠でも安心でもないみたいな。

 

これとシュールレアリスムを掛け合わせる試みというか、個人的な味覚としては良く似ていて。「シュールレアリスムとは何か」。

 

国語辞典と本来の意味はむしろ反対にあるというのがまず面白い。たしかに素朴に考えれば、国語辞典の編者は言葉には精通していてもあらゆる学問を網羅している訳でもない。自分のことを完全に叙述できないのと同じ。

 

翻訳すれば「超現実」で示されるシュールレアリスムが、現実的ではないことを表現すると解釈される方向性も然るべく。ここの超は「超スピード」と近いと評した人が居たらしい。スピードの次元から離れた訳ではなく、過剰なだけであるとのこと。個人的にはこれで分かりみだが、素朴に表現するなら「スーパーサイヤ人」のスーパーの方がしっくりくる。スーパーだがサイヤ人であるのは確か、みたいな。

 

要は、現実と規定されている世界には、見えていない部分があるのではという気付きに基づいた表現者クラスタ。これはある意味規定の現実を強化する作用もありそう。言葉自体が現実の範疇なのだから、自由な現実はない。

 

そもそも現実とはということはずっと考えている。正答を見つけようとかではなく、座りが良いのはどこだろうなーって。もちろん動く存在だから一所には留まれない。表記の揺れはあえてやっていますし。

 

僕が現実感を疑っているのは、第1現実はダーツの旅で言うところの第1村人みたいな発見したものでしかないところ。第1人格も然り。人生劇場におけるお作法みたいな部分。

 

まぁ、人は関係の中でしか存在しないからそれは大事。

 

でも、味覚的な存在感だと、人の人との関係は別にお作法ではないし、言葉があるとか分かり易い反応があるかとも無関係。そんなことでは人は決まらないし決めてない。

 

でもでも、この生き方ってお作法ではないから、お作法的に何も思われていないと解釈される可能性はある。世界から退場したい人を慰めようとも思わない薄情者。知らんがなでなく、決めたのであればしょうがないという味わい。生きている価値って、しんどいことを体感できることではという説もあるし。

 

とか言いつつ、僕は自分を決めないように生きているから意志とか目的の中で生きることにも疑問があるが。人格不統合者。

 

緩めているように見えるように緊張しているみたいに、言語で顕そうとすれば矛盾が起こる。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

酔い夢を。