まったりごろごろしながら思索を遊ばせる1日。
朝ごはんはレンチンするご飯と納豆。玉ねぎと椎茸とリケンのワカメでお味噌汁を作り、祖母印のらっきょうの甘酢漬けと、昨日の残りの長芋と筍の水煮の白だしベースのわさび漬けをいただく。まったり和食。
わさび漬けが美味しかったから、残った食材と味付けの記憶をベースにアレンジして作る。チューブわさびを多めにしてゆかりをまぶす。
食事を空腹を満たすためだけに使うのはもったいない。もっと味わうべし。
とか言いつつ昼ごはんのタイミングを逃し買い出しついでに歩きながらコンビニおにぎりを食べたのだが。自分の中でルール化はしない。
三次元的な動きは全然していないため、日記はここまで。あとは頭の中を散歩する。人の頭の中に存在する世界が何次元なのかというのはとても気になる。少なくとも4次元(時間軸があるから)以上で、次元はいくらでも増やせるのではという感覚。五感も気分も変数だし。だから人は一筋縄では捉えられない。ひも理論なら捉えられるのだろうか、んなことはなかろう。
「シュールレアリスムとは何か」がやたらと面白くて、お風呂読書の無知の塔から飛び出してきて、日中も読んでいた。言葉は畏怖しないといけないような危険物でもあるのだなぁという感じが記述されている。
(どうでも良いが、作者の巖谷さんとも気が合いそう)
現実と超現実の地平は繋がっているという結論。やっぱりスーパーなところに在るような感じ。「自動手記」という試行があった。記述を書く速さを変えていく。言語化を主観ではなく客観的指標で測って覚醒させるというのは、心理学で言うところの締め切り効果と似ていて理に適っている感じ。主観的な世界でどうあくせくしようとしたって脳の回転は上がらない。気を抜こうとした時には既に緊張している。
自動書記の速度を高めていくと精神に異常をきたす危険な世界に入るというのもなんとなく分かる。人の原初の精神(人格)は生まれ落ちた社会において異常であることが普通だし、そこに戻っていくということなのだろうなって。
書く速度を早くするごとに主語が喪失していって、最終的に「誰か」になる。まさに発達心理学上の人格を自覚する背景のような。自分を発見するのは自分だけではできないことで三次元の自然の因果関係でもない。意識できる意識は意識という言葉(概念)上の主体が無いと起こらないが、主体という概念自体に主体が客体になっているということが含まれる。他の主体から客体になることで主体が在る、みたいな。
そういえば、ネガティブが得意な人が、自分が世界からはじき出されたというという表現を使っていて、これが「主体」としての存在なのだろうなと思い付く。陰の者の人格の傾向として世界から孤立している感じを拭えない性質があるように観測されるが、人格が生まれるのは世界と自分が一所にあるところから個としてはじき出されることによるのだから、当たり前という感じがある。物体的にも母体の一部から別物としてはじき出されることによって生まれる訳で。
なにとも繋がって居ないという苦しさは、あまりにも当然の感覚であってピックアップしてもしょうがないのではないかという気もする。気にしていてもそのうち物体は滅ぶのだから、一期一会のこの世界を楽しめば良い。
言語化を突き詰めていくと希死念慮が起こるというのもなんとなく分かる。
「自動手記」の高速化の収束は、最初の人格である概念が列挙された世界になるらしい。僕も言語に主語がないと常々指摘されてきた人生。今でも近い人には評される。
コギトエルゴスムの、我思うゆえに我ありは皆大好きだと思うが、別に考えていないところにも当然自分はあるし、それを志向とか意志に還元する必要はないような。考えるのではなく、意識されている間に人間が存在するくらいが、適切。
この文脈だと、誰かの記憶に残ることが大事という感覚も分かる。
誰かを媒介にするのがそもそもの主体の成り立ちだから本能的にそういうことを求める。
自動手記の下りでもう1つ。人の言葉において完璧に意識的なものはないという発見。お喋りとか雑談は当然、文章だって必然。個人的に意志は過去を功績にしている恣意と解釈している。僕の文章はほとんど自動に任せている。書こうとしたことはほとんど言語化されていない。
目的も価値もなく存在が成り立つという図式の体現。
一般的な思考基準だと、そのうちネタが尽きるのではと思わなくもないが、そもそも持っているものではないし、源泉は知識とは別の所に在るらしいからいくらでも書ける。
そういえば、僕は僕が客体になるときの存在もある程度自動的なところがある。所有とか隣接が存在としての近さと思っていないから、相手の中にある存在の許容範囲を探り探りしながら、ゆるゆる接する。
僕の中では接した他人は隣接しなくなっても消えないし、隣接を保持するために契約を持ちだす必要もない。
婚姻って別に関係を決めるものではないし、ただ離れにくくなるという効果しかない。持っている財産関係が簡略になるという節はあるが、それは三次元的な世界観に依る。
僕は結婚式を楽しむところがあるが、姉の結婚式の時からこれを手放しで祝って良いのかって素朴な疑問があった。妹の出産になるととても顕著。この先を考えずに他人事としてお祝いにできない。祝い事はそういう世界線に生きている人達がそうしてくれるだろうから、別に僕でなくても問題ない。
子供は好きだし結構好かれるのだが、ここでは別問題。
子供は言葉で生きていなくて、鮮明に世界を捉えている。
関係なく単なる他者として尊重される方が凄くないかというのが世界観。
子供と言えば、僕が単語で話す癖の解釈。
伝達欲求はないから、一緒に世界を眺めている人に対して適切な言葉は単語になる。原始の指示語みたいだが、世界を眺めているところで解釈は行われていないから、文としての言語はない。
他人事みたいに自分を言語化せざるを得ないのも、言語として構築された文としての世界に疑義があるから。人の世界は全然主語述語で成り立ってないのに、言葉がそうなっているから、なぞらえる。
あと1つ。まぐわい論。
なんかうまくいかなくなっている昨今。
上手く食べられない。食べるのが昇天という消費ではないという反発っぽい感じ。
べたべたは好きだが、その先にあるのはなんとなくお作法ぽくなる。
いや、そんなことなくても近いですよという感覚が通じたことがない。
緊張してしまっている感。ダーツと似ている。
がおー。(野獣のペルソナ)
「性食考」で、動物を食べるというのはある世界線では共喰いの一種だという話があった。
たしかに、何を持って共喰いという概念になるのかというのは、隣接記号としての言葉の仲間がどこまでかということによる。
植物を食べることについてなんとも思わないのは、植物が人生劇場にとって食べても良い存在だからであって、消費物なんだろうな。消費する、されるはもちろん自然の移ろいだからふつーのこと。倫理観は不自然だが、社会的には必然。
他人の存在とは。
僕はその人が言語的に表現している主体としての人格より本棚を観測したい。自己紹介よりよほど信ぴょう性がある来歴。本を読んでない人が僕の文章にたどり着けるはずがないという世界線でもある。
ちなみに、僕の本棚は混沌。
ここまで。
おやすみなさい。
良い言葉を。