恐怖

 

 

うごうごと高速回転している頭の中がうるさい1日。起き抜けの寝ぼけ眼で見上げた天井模様に何かの絵が見える。何を示しているかは読み取れない。

 

準備運動で今日のご飯のスケッチ。

 

冷凍していた鶏むね肉。1人で夜ご飯と弁当で使い切るのは難しい。しかし、冷凍しっぱなしだと未来の僕が捨てざるを得なくなりそう。全部使うことにする。大ぶりにそぎ切りして、ピーマンと人参と一緒に炒める。味付けはマヨネーズとめんつゆ。少し肉だけ取り分けて荒熱が取れたら冷凍。丼にするかうどんに入れてしまうか、いずれにせよ僕の胃に収まるまで残る。

 

梅肉で和えた何かが無性に食べたくなる。梅干しは毎日食べても飽きない。きゅうりと梅肉チューブを買ってきて、まずは2本、2箇所の皮を包丁で削いで、てきとー、しかし大きめにきって塩もみで少し放置。その間に読んだ文章は後にして、洗って絞ったあと、白だし梅肉を追加。鰹節がベストだったが、何かあるかと調味料棚を見るとすりごまがあった。加える。完成品は胡麻色になったのだが、梅肉の風味はあって、ごまも好きだから問題ない。というか、美味しい。

 

あとはルーティンの買ってきたベビーリーフのドレッシングによく分からない横文字のドレッシングを買ってきた。マスタード風味で良い感じ。そろそろ自家製ドレッシングを量産しても良いかもしれない。ワインビネガーとオリーブオイルがあればあとはいくらでもアレンジできそう。

 

 

よし、なんとなく温まって来た。

時間を巻き戻す。

 

出勤しながら、うごうごしている自分の頭の嵐に意識を向ける。何倍速か分からないくらいで自問自答したり、世界を言語化したりしている。これをあえてスケッチしようとすると、攪拌されて重みがあるネガティブの色が付いた言葉が表現されるのかなという脳内イメージ。感謝とか愛とかふわふわした言葉はどんどん上昇していくから、ふつーに描写しようとしても出てこない。気分が上昇しているとも違うな。

 

ただ、僕のネガティブの色の言葉。もちろん希死念慮もある。ただ、これはこの世界に生きることに対する憂慮でも無さげ。僕は楽しいのだが、このまま過ごして良いのかみたいな。あと、この指向は他者とか世界とかに向いておらず、ただただ自分に向かう。自責の観念というと凄い重石があることになりそうだが、そうでもないらしい。

 

重くないことに対する罪悪感みたいな。辿っていくと、「怖い」という名前が付けられそうな感情が見つかる。未知への恐怖ではないし、不在の虚空でもない。

 

なんだか不思議だなと常々思っていたことが可視化される。自信でもなんでも良いのだが、自分の位置に対する信仰は誰しもが持っている。ここで言う信仰は内心でそれを信じているという主観的な世界ではなく、基づいて行動するという現実にかかる。

 

誰しもなにがしかの着地点を見つけて、することをしている。

それがしょうがないと思いながらでもしている限り信仰だし、その原因が惰性であれ契約であれ、なんでも同じ。

 

し続けることができる好きなこともそのうち見つかって、そこで暖が取れるのが普通のような。それがどれだけエキセントリックであっても、他害がない限り問題はない。

 

僕はもしかしたら自分の無軌道性が怖いのかもしれない。倫理的な気持ち悪さがほとんど無くなってきている。漫画アプリで、「先輩は男の子」だったかな、可愛いものが好きな男子高校生が女装をしていて、幼馴染の男の子がその子を好きになるみたいな話を読んでいるのだが、性癖に来るとかではなく普通に違和感なく面白いから読んでいるだけ。小学生くらいの時分には読めなかっただろうな。

 

むしろ倫理的な外圧での世界を当たり前としてその外の世界を無自覚に排除できる人の方が機械的で気持ち悪い感じ。別に自分の世界の中でそれをしない、できないは問題ないが、それを他者に及ぼすのは何か違う。他者にそれをさせたいのであれば社会の他責にすべきではなく、きちんと説得すべきところだが、あまりに当たり前過ぎて説明できるはずもない。言語化領域ではなく、無意識の肌感だから異質な他者は怖くて味方か敵しか作れない。

 

 

無軌道性の怖さとお勉強の繋がり。

 

 

法律書をお勉強領域にしていたのも含め、僕は自分を「怠け者」としてきたところがあるのだなと気付く。たしかに、実家に帰ると何もする気が起こらないし、高校までの生活時間の家の中で何か活動できた歴史がほとんどない。何かをしろと言われると、その言葉にはお前はそれができない人格なのだという呪詛があって、人間はそうやって叱咤しないと動かないという世界観になる。義務がないと動かないとかもそう。

 

たしかに義務とか叱咤されると途端に怠惰になるが、そこでは動けなくなるだけで、素朴は僕はゆるゆるであっても、動かない訳ではない。なんでもして良いよっていう世界であれば、料理のスキルも磨いたし、本もいっぱい読めるようになった。

 

これは逃避的な動きではない。

 

人間は目的によって人生劇場で動けるという世界観も緩めると怠惰になるということによるのかもなと解釈できるとすっきりした。目的的な人生観は無目的になったときの世界の途方もない無限性に動く気が失せるということにありそう。

 

だいたいの人はここで指向を収束させて、分からないことを分かったことにして安心しながら目的に適うように生きていくのだと思う。

 

この先はとても怖いもの。

 

 

だから返って来れるランドマークがあるという世界観はありき。

ほとんどの人は自分信者だからそれほど自分からは離れないかもしれないが。

 

やれやれ。

 

そういえば、多様性っていう言葉を見かけたが、ここでいうのも自分から離れてない多様だから全然多様ではないよな。自分は色んなことを許容できますよという瞬間的なポーズ。っ写真のよう。

 

僕を無軌道にしたときのこわやこわや。

 

今や何もおべんきょしなくて良くなったのだが、裁判例のPDFを消化しつつ、そうすると論文を読める場もあるのではないか、となって、論文検索できる場を見つけた。最初は大学一年生の書評だったが、コント 歴史哲学で聞いて出てきた論文が無知の塔で読んでいる人のことを書いていたり。

 

こわやこわや。

 

引き寄せは普通にあるし引き寄せられた人のことは考えてしまう。ほんとにその時間、僕に費やして大丈夫かって。

 

まぁ、ここを上手く気にしないようになればもっと動ける気もする。

 

アンバランスであることは問題ないが、きちんと存在として捉えてくれていない人を無駄に関わる人生時間はない。

 

僕は知らないことに対して恥がない。突き詰めれば人間は全裸で生まれてほとんど全裸で死ぬくらいの恥だし。

 

はい、おやすみなさい。

 

すっきりしますように。