この先

 

 

人との縁にタイミングを計っていたらいつまでも起こらない。

 

エスカレーションに大人気の上司に確認を計っていたらいつまでも報告できない図に対してふと出てきたフレーズ。全世界的にも適用できるのだろうな。人の位置は動く。

 

頭の中を観測していると折々何かのフレーズがあって、時々「お前誰だよ」と思ってしまうこともある。でも基本的にはどんなことも面白がっている節がある。知己の長さによって新人と同じくらい手軽にエスカレーションできる先輩はとても上手く生きてそうだなぁ、とか。不機嫌もお構いなしなのは凄い、僕もそこまで動けるかしら。いや、僕の人生劇場はきっとそんな立ち回りではなかろうな。

 

悪夢で始まり楽しく生きたなで終わる1日。

 

夢ってたぶんほんとはもっとシーンがあって、意識で汲み取られる一部が画像化されるものとしている。

 

夢の中で悪夢を見て醒めても夢の中で、これはもうこのままなのではないかとなる。これは夢の中の夢という入れ子構造だが、夢から醒めないという一重の危険もあるよな。寝てる間に隕石が落ちてきたり、どこかの脳の血管がぷっつんなったり。今までは起きれたから今度も起きられるというのは単なる希望的観測とも言えなくもない。

 

中身1つ目。姉から僕が悪いことをしたという推論だけで責められているのだが、たまたま僕はそれをやってないという証拠を持っていたらしく、それを呈示したら掌の返しが半端ない。いや、だったらそもそも想像の世界で人を責めるなよ、こわいこわい。

 

もう1つ。こっちの方が重たい。

小中でよく遊んでもらっていた1つ上のお兄さんが下の階の部屋に住んでいる設定。その人は引きこもっているらしく、全然部屋から出てこない。時間が経過して僕ではない人が窓を無理やりこじ開ける。僕は何かの予感があって、部屋の中を見たくなくて、スルーするのだが、視界に入ってしまう。地面から10㎝ほど離れた足と紐の端。

 

そんなシーン見たことはないし、足から地面を離す必要もないことは知っている。

 

なんでこんな夢を見たのかという解釈はしないことにして、この近所のお兄さんのことを思い出す。今何しているのだろうな。

 

僕には同性の兄弟が居ないからか、この人ともう1人、懐いていたお兄さんが居る。どちらも陰キャと言うか、同い年のクラスメイトのヒエラルキー上位(陽キャ)から忌避されていたことに思い当たる。別にどんな遊びをしていたとかはなく、その人がテレビゲームをしていたのを眺めるのが楽しかったし、なんだか安らいだ。

 

ここで陽キャの呼称を改めたくなった。陽の者ではなく、単なるその場における多数派でしかない。日光は遍く降り注いで相手を選ばないし。

 

この原初辺りの記録(記憶)からすると僕が多数派でない傾向を持つ人を好むのはもともとだったのかもしれない。自分が排除されることを知っているから、人を排除しない。ただ、別の場所では多数派になってウェイウェイする人達は全体的には少数者だとしても多数派を求めているから違う。

 

僕がつぶやき系SNSとか動画サイトにコメントができないのは、躊躇しているのではなく、そこに存在してもなぁという感じがあるための模様。孤立が良いとかでもないが、別に仲間だから存在としている訳でもないというか、微妙な心持ち。

 

ただ、コメント群を眺めるのは好きだったり。フェチというか何を持って書いているのだろうという匿名性の妙味を食べるとか。「先輩は男の子」のコメントで、ジェンダーとか性自認について、自分の認識の方が広いみたいな自認があるよう。でもこれって、当人の功績ではなくて社会が受け入れる土壌になったからでしかないのだよな。

 

教育が云々という話もあったが、僕は学校のお勉強で学んだ倫理観は雑過ぎて全部放棄している。教育で学んだことって実生活からはかなり乖離しているように勉強させられるから、どれだけ義務的に学んだところで、一致している部分しか繋がらないような。

 

上がるのは識字率くらいで、社会の落とし子みたいな人が量産される。

そもそも人は平等な個人だと宣いながら、競争して比較されるのだから矛盾が凄くないか。そんな中でもしたいことを見つけられる人はたくましい。

 

社会は矛盾しているのはオトナの感覚では当たり前か。

でも、この矛盾を子供はもっと鮮明に捉えていると思う。

 

僕は基本的に周りに合わして空気を乱さない傾向があったため、1人で居るときが一番稼働できるという節がある。この稼働を受け入れてくれる変人さんにも出逢ってしまったが。

 

 

子供のような素朴な疑問。

 

社会学を読んでない人が多数派を占めている社会って何を学んできたのだろう。

学ぶことが自発的な衝動であることを取り去って、カタログからどれを選ぶかという限定的選択になっているから仕方ないのか。カタログそのものを疑えることになるのがほんとの大人なのではと思っている昨今。

 

コントさんほんとおもろ。

 

仕事から帰って、またPDF記事を1つ消化した。21頁で、これをPDFにしてくれた人が居ることに感謝。縦書きでまぁまぁ古そうなフォント。この人は自分の世界とは別に、社会のことを考えていた人なのだろうなという味わい。社会は神学的、形而上的、産業的に進歩するということを書いている。

 

面白いのが、フェチシズム的な世界観。これは段階的には1歩目の神学領域なのだが、人間は、対象に対して自己と同じような意識や心があるとして、世界を整合的に捉えたい衝動がるとのこと。擬人化とかの話か。

 

自分は科学的世界観で生きているとしてる人も、別に科学をそこまでやっている訳ではないはず。整合性の中のカタログとして選んでいるという意味では神学的な世界観に近い。自分で実証したことがないことを信じられるのはまぁまぁ素朴に不可思議。

 

人のことは良いや。

 

「最終講義」で、「博学とは、諸学問の区分けが便宜的なものでしかないと認識することから始まる」。シュールレアリスムの現実と超現実が地続きであるとほぼ同じことを言っているような個人的な味覚。

 

分けて認識するというのは前提でしかなくて、分けた上でまた戻せるのが人間の妙味。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

元気でありますように。