つらつら

 

 

なんだかよく分からないが、鼻パックをしながら書き始めている。世界とはかくも不思議なものだ。

 

鼻パックといえば、小、中、高辺りに、姉の鼻の毛穴からティッシュ越しに汚れをつまんで絞り出したことがあった。特にそこに性感的なものは当然に皆無だが、女体に対する神秘的渇望はここでなくなったのかもしれないとふと思った。肌がつるつるしているのも処理とケアの賜物だし、装いのくるくるしているのもそう。まぁ、男性の清潔感は見てくれだけでもないような。努力の次元が違うのか。

 

ちなみに、僕は時々フケがスーツに落ちている先生(上司)について、とても自分で生きていて尊敬している。想像力の器が凄い。同期が新品のキラキラしたシャツを卸していた。同期の仕事着の感性は良く分からないが、3年前の忘年会で着てきた真っ黒なレザージャケットは尖がっていてかっちょいい。

 

とか言いつつ、僕の仕事着はくたびれている(毎日アイロンはかけているにしても)。普段着も匿名的。

 

なんだか形而上的ではなく形而下の見てくれから勝手に始まったからしばらくこの話から。

 

見てくれの好みというのもだいたい規範的というか、誰かを美とした人に倣っているのが始まり。好きな女優とか好きな俳優とかもっと始まりはクラスのマドンナとか、関係は度外視して採点する。僕の最初の違和感は、小3,4くらいに、小学校の駐車場で好きな人を語った時に、相手が、好きだったけどもう好きじゃないとか言っていたところから。

 

その後、大学時代。好きな女優を聞かれて、たまたま映画で好きな演技をしているという意味で宮崎あおいさんを呈示したら、カエルだろうとか言われる。カエル顔の何が悪いのだ、肉感的な女体は経験済み感。変な意味ではないが、そういう意味で二次元へのフェチもない。まぁ二次元でも可愛いキャラは可愛い。

 

そうして、ラクダ顔と言われる。キリンとも。すっとぼけいてまつ毛が長いというフォルムに対する類推。まぁここは良い。だいたいそんな顔であるのは確か。あまり文字数増やすとここはアレだ。

 

そういえば、昨日書いた、自然の美を感じないというかつての友人が、理想とするというかかっこいいと思う男性俳優は誰なのだと言われたとき、全く返せなかった。誰をカッコイイと思うのかで映画は見ていないし、自分と対比してもいない。単純に演技で言えば、僕はジョニー・デップ松山ケンイチの役に合わせてカラフルになれるのがカッコイイとは思うのだが、別に顔が好きとかなりたい顔でもない。職業に貫徹している感じが好きなだけ。

 

この話、人生劇場にも通じる。

 

人は自分の像を客観としてそれぞれ人を通り過ぎるものとして居るが、例えば自分の表情は自分では見られないのに、相手に対して同じ顔をしているってなんとなく自分に対しておこがましくないか。

 

キャラは内心に形成されたものではなく役柄にある。

 

パートナーとかどうかではなく、相手の表情が良いかどうかが全て。どうやらいっぱい笑っているらしいから素朴で居て良くなっているらしい。

 

神妙な顔で過ごしたって世界はなるようにしかならないし、なんだか笑けてしまう。

 

 

こういうのは子供の所作だって評されるのだが、どれだけ生きたって子供の概念からは離れられない。知らないことが恥ということだとすると、個人単位の人は全裸で生まれて全裸で死ぬし。

 

見てくれをあんまり見てくれない人の方が本質をよく見てくれている。

僕の存在に笑顔を見せてくれる人と接する。

 

三次元の話はここまで。

 

 

時間軸の話。

 

見ての通り毎日きちんと生きているのだが、仕事時間もいつの間にかあと30分で終わりとかになっておる。かといって見返してもそこで何をしていたかが忘れられることもない。

 

 

僕は本を読む人が好きというより、きちんと人生劇場の中で僕の存在が認識されている人が好きなのだろうな。パートナーになったからこういう世界観になるかどうかは分からない。

 

 

文字数少なくてすみません(誰に対して)。

 

よっぱらっちまったのでここまで。

 

おやすみなさい、

 

良い幸福を。