安心が慢心にならないように

 

 

枠の拡張。経験値ではなく体験値。

 

 

パンケーキで始まる1日。ホテルなんとか監修のアレンジレシピのプレーンヨーグルトとバニラアイスが加えられた生地を四つ葉バターを引いて焼く。ヨーグルトの酸味が上品な味わい。

 

昼過ぎに美味しいらしいランチに向かったところ、ぎりぎりになったために売切れになっていた。そこでその辺りで目に留まったお肉やさんに入り、いくつかのビールがちょっとずつ飲めるメニューとホエー豚のグリルセットをいただく。テレビでは再放送のギャル曽根が大盛メニューを食べる情報番組が流れている。綺麗に美味しそうに食べる訓練をしているのだろうなという感じ。

 

個人的にはコーヒー風味な感じの「アフターダーク」という黒ビールが好きだった。製法とというか成分の違いでビールと発泡酒の税区分が変わるのがなかなか面白い。

 

その後、なんとなく運試しの風潮になり、初宝くじ売り場(行ったことなくはないか)でスクラッチを1000円分購入し、200円が返ってくる。結構盛況で、運を本気で掴もうとするような顔つきの人達。運の坩堝っぽい。

 

その流れで、さらに混沌のパチンコ屋さんに遊びに行く。音量が大きい空間はなんとなく苦手だがなんともなかった。1円パチンコで1000円分。すぐ終わるだろうなと思った。エヴァンゲリオンが暴走している隣で地獄少女をてきとーに回していたら、ちょうど玉が尽きる頃に入ってしまい、そこから10いくつか。結局スクラッチも挽回して計1万ほどのあぶく銭がやってきた。

 

運は純粋な確率論だけでは実現されず、どういう無意識よりもっと底でどういう取り決めが行われているかによる。内心で自分に運があるかどうかを評価しているところでもなさそう。ギャンブル運は皆無だと自己評価していたが、たまたま運が遊んでくれた。これでこの混沌にハマることはないが、運とも遊んで良いのだと取り決めたのだろうなという感じがあった。

 

貨幣システムについて、他者がそれを必要としているという媒介ありきの信仰のようなものだという話を無知の塔(お風呂読書に持って行っている30冊くらいの本群)の中で読んだことも利いているのかもしれない。

 

貨幣そのものの運と遊ぶより、価値的に交換できないプライスレスなものを寄せる運と遊びたいから、ほんとにゲームで遊ぶような感覚の時しか行かないだろうし、そもそも1人では行かない。遊び相手(主に本と思索)には不自由していないし。

 

あぶく銭は経済に返すべし。美味しいコーヒーとクレープを買って、帰ってからカレーの出前も頼む。流行っているなんとかイーツではなかった。パチンコ通算4回くらいで当たったのは初めて。カレーの出前も初体験。

 

帰る前に戻る。お世話になっている最寄りの古書店にお返しという名の買い漁り。5冊が無知の塔に追加される。積読は辞めたから置いておく本は買わない。それで逃したとしてもほんとに逢える本であればまたタイミングがあるだろうし。あくまで身の丈の枠で。

 

ほんとはコントさんがベストだったのだが、読んでいる本によく引用されているマックスウェーバーの「プロテスタンティズム云々」。岩波文庫。ゆっくり味わう。

 

バタイユも良く出てくるから気になっていたら、無神学なんちゃら、内的体験という本がやってきた。ニーチェが引用されていて、色々悲観的なことを捉えつつ、それでも笑ってしまうというフレーズがあった。これが超人か、と、にわかだが、いまは基本的に笑って過ごしているな。楽しい出来事があるから笑っているのではなく、何があってもだいたい笑える世界観。

 

2冊は推薦本で、呪のなんちゃらという対談本。白川静とその後輩みたいな人。漢字にまつわる思想の根源を研究していたら中国史を専攻するようになったというところまでは読んだ。僕も漢字の感じは好き。「平面 空間 身体」という本も面白げ。客観的なデータとしてのこれではなく、主観的な体感がベースになっている。

 

あと一冊は吉本隆明さんの批評本。200円だったから、中身も見ずにタイトル買いしてしまったのだが、1章がバタイユだった。人は「他者」を志向する、親族は初めの他者だみたいな、感覚的に既知な感じのことが書かれている。

 

本も確変中。笑

 

ここから哲学パート。

 

僕の素朴は、所有と交換ベースではできていないらしい。なんなら時間ベースでもない。かといって、公的空間における振る舞いの情報は取り入れているからそこまで自分で過ごすとはならない。

 

私的空間において、デリカシーがないらしい。たしかに生理現象とか出しっぱなしだし。ただ、生理現象としての欲を他人に発散することに対して何かブレーキがある模様。これができた方が相手が自分を愛していると評価できるのだろうが、これって愛の行為なのかという疑問。遊びで上手くできたことがない気がする。

 

お風呂読書の最後に読んでいる小説は、存在の軽さみたいなタイトルで、まぐわいを愛と混同しており、「性愛的友情」という倒錯的な造語がある。こういうのって生理的な欲求をお互いが交換的に解消する無限ループなのではという感じ。

 

交換的関係は、それが無くなったときにどうなるかが決まっているようで怖い。

返せなくなったらどうなるか、きっと世界線が離れる。

 

基本的に世界(自分)に飽きていない限り他人に飽きることはないはずだが、固定されると困る。

 

僕の素朴な存在は、こういうところには居なくて、なんなら客観的時間軸も排している。自分の時間で生きていれば経年も無関係だから、退屈な時間が存在しない。人生劇場をきちんと演じるのであれば退屈している暇はない。

 

関係している人によって自分が動くことは当たり前で、それがないと関係している意味が無い気がする。歩調を合わしてゆっくり歩くことは制限でもなんでもない。時間軸で世界線線が動いているだけ。

 

という意味で、他人の世界線も考えたとき、素朴な僕と関係するのは無理することになるのではないかというのは気になる。別に行動を動かすことはない。ただ、時間軸が異なる。

 

でも、人間関係ってふつーにこういうものなのかも。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

元気でありますように。