濃度

 

 

 

朝起きて、存在はありなしではなく濃淡なのではという感じがある。

 

 

さておき。

 

相変わらずマスクがなければ不審者のような顔つきで生活している。生活の道すがらで見かける光景が毎日新鮮。もちろん忘れているのではなく、残しているからこそ動きを捉える。そろそろ紫陽花が色づいているとか、人の装いが軽いとか、そういう無意味なところ。

 

無意味は好きだが無駄はあまりよろしくないかもしれない。この区分けも微妙なところだが、意味で色を決めないのは自発的迷子であって自分の中で大事でないことに傾くのは閉塞になる。

 

無駄は迷いの概念が含まれているが、目的地があるのに逸れている。無意味の自発的迷子は迷子そのものを楽しむ。思索的うごうごも無意味なこと。

 

頭の中のうごうごが捗るほど、実体的活動(生活)に無駄がなくなるような感じ。因果関係もいちいち決めなくて良い。

 

仕事から帰ってきて、すぐさま洗濯機を回して洗い物をする。カフェオレを飲みながら来月の移動の為の予約をする。ついでに高速バスも予約。楽天カードのポイントが勝手に貯まっていたため、ポイントだけで賄えた。1番時間かかったのは情報を入力するときの自分の年齢を想い出すこと。年齢は外用の事務情報でしかないから、ふと出てこなくなることがある。物忘れというより自分の中では無駄情報という括り。

 

ついでに、明日の給料日の後にこなすだろう事務(クレカの支払口座への振り込みとか)も終わらせた。

 

夏休みの宿題を最終日にやっていた頃の自分はどこに行ってしまったのか。でも、外から設定された課題だったら、僕は夏休みの宿題と同じく振る舞うと思う。宿題は選べないが、仕事は雇用契約を選んで結んでいる。人生劇場における任意であることは、いやいや後回しにする世界観がなくなっている。

 

ふとした時分から、任意であることを気にしてきたのはこういうところ。心配には元気だという言語で返さないといけないとか、人情としては分かるが、定型文的な応答でなぜ安心できるのだろうという感じ。要は当人の中に存在している相手は、相手が本当にどうであるかではなく、相手が発した言語情報で構築されている。

 

 

任意であることと、意志であることはノットイコールであって、意識で在ることの方が近い。個人的な解釈だと、意志は無意識が決定したことを後付けする概念で、レールに乗っている。もちろんレールが悪いとかはない。ただ、意志にそんなに功績はないのではというところ。たぶん、ここで決定しているのはもっとうごうごしたブラックボックス。ただ、これが無意識のメカニズムだけではないところが人間の深淵なところ。

 

任意=意識は現実化しようとしているところをモニタリングできる領域。人ってほとんどしたことしか記録に残ってなくて、している最中は意識の外にある。例えば何かをお勉強したとき、何時間したとかは記録として残っているが、何をどういう風にお勉強したかは意識されない。意識されていても言語化できないでも良いが、であれば外からは捉えられないから同じ。

 

 

どうでもよいようなどうでもよくない話。

noteでフォローしている人達が本日更新ラッシュなようで、とてもほくほく読ませていただいた。ふと気になるのが、100人以上フォローしている人のマイページってどうなっているのだろうということ。それほど更新されないと仮定しても、少なくとも何十単位の記事が更新されているはず。その中でめぼしいものを読むのだろうか、全部毎日追っていたら大変そう。

 

存在の希釈化というか、ふつーのことなのか。

ふつーの存在としての薄く広い関係。僕はこういうのは駄目なのです。コンテンツとして人の存在を捉えられない。何を書いているかより誰が書いているかみたいなところ。属性でもなく。

 

そうして、存在論、いやその前にマスクをかけるご時世の生活の話。

 

個人的なマスクの最初は給食当番だった。これは当番の唾液が食べ物に入ることを防ぐ衛生観念としての合理性がある。そうして、哲学少女はこのご時世のことを道徳観念に任せていると言う。これも確かな合理。

 

法律として誰にでも強制できないことが全てを物語っている。法律はとても強制力が強くて、素朴な誰かの誰かを排除したいという思想でやってはいけないし、社会的な確たる証拠がないといけない。例えば表現の自由で、自分にとって嫌な表現は見たくないという個人の思想があったとしても、それを法律がする訳にはいかない。法律でしてしまうということは、問答無用で自分が好きな表現も誰かにとって嫌だったら規制することが是となる。

 

悪影響であるかもしれない、不安であるという可能性では法律は発動してはいけない。

 

 

で、マスクの話。

 

僕はマスクに閉塞感はあんまりないし、特に感染予防に効果があるとは思ってない。あと、アルコール消毒も。だって、これらがほんとに効果があるのであれば、もっと感染数は収まっているはずだし、何より安全としての現実のために法律が発動しているはず。

 

素朴に不思議を感じる。

 

それでも僕がマスクをしているのは、自分の為ではなく周りの為。ストレス緩和での免疫力向上というか、道徳的な安心の為にしている。外から見るときちんとこのご時世を捉えていると見受けられるという意味での道徳心。こんな対策で何か対策できるとはなっていないのはニュースが言っているが信仰には合わす。

 

健康はどう健康的に生きたところで、長寿が対価として返ってくることがないから信仰の領域。外からやってきた情報より、自分を観測して個人個人が免疫システム高まるようにした方がいい。

 

僕が打っていないのは自分の為だから。外からこの人が打っているかどうかなんて、妊婦シールみたいに貼ってないと分からないし、打ちましたよって言語で表現したところでほんとのところは分からない。自分を守る為の天秤に振れているのであればということでする意味を感じなかった。外からの安心(例えば母親とか)のためには嘘ついても良かった。打ったのだって言えば良いだけ。

 

ただ、嘘は免疫力を低下させるような気がしなくもなく、楽しく人生劇場を生きられない気もしてきていて、もう他人にある僕の存在に合わせなくても良いのかなと思ってきている次第。ここら辺のダムを決壊させるべき。

 

存在の濃度に戻って来て。

 

存在とはなんぞや。

 

白川さんの本で、存在の語源は、神様に清められたものみたいな話があった。

 

一般的な存在を論ずることは失敗してきたみたい。そもそも実生活において存在は意識されないし、存在よりも実体の方が重いから。

 

ただ、それとは別に、個人の内部の世界観における人の存在は物体的な実生活とは離れている。当たり前だけど大事にされないから意識も言語化もあまりされない。時々できる人もいる。

 

人が人生劇場においてどこに生きているかというと、きっとナカ。それが人で生きる醍醐味。となると、ここでは造物主的な神様になれる。神様であるから匿名的な世界では人の非ばかり世界に在ることもできるし、自己のキャラクターを悲観的にも楽観的にも設定できる訳で。

 

その中に居る誰かの存在は、実在の人物と連動なんてできない。人を人として観るということは、相手のことを任意的存在として捉えることだし。予想から外れる、自分が嫌なことも起こる。

 

僕の中の存在感だと歴史上で再会するだろうなと思う人は2人くらい。

なにやら濃ゆいし、別に任意的な志向として逢いたいとも違う。

 

まだなにかうごうごしているが、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。