泣く感情

 

 

 

白だしで作るきゅうりとワカメの酢の物はお上品な色と味わい。メインは鯖缶気分。水煮缶の汁を抜き、オリジナルのだしに挿げ替える。茄子と人参と椎茸とキャベツを具材に、ほんだし、生姜、梅肉、味噌をちょっぴり。コクを欲したため、ごま油も垂らす。そして、カルピス原液を買い忘れた。カルピスがなければ牛乳を飲めばいいじゃない。

 

なんて。

 

帰り際、駅ビルから駅への連絡通路から道路が濡れているのが見受けられる。喧噪の音を雨足と勘違いして、まだ降っていると思ったが、ちょうど良く止んでいた。スーパーのレジでタイミングが合わない人に当たり、資本主義を想う。時間と労働の生産性は職業の多様化によってとっくに終わっているのに、マルクスさんの手工業みたいな時代と変わっていない。

 

時間と貨幣は別の物だとした方が精神衛生上良いような。僕がてきとーなだけか。昨日ピーマンが78円だったのだが、198円で販売していた店員さんが居た。僕もその人に当たって、前の人がレシートを見て指摘していて、できる店員さんが対応していた。推定的に僕も間違いに当たっているに違いないが、レシートも捨てたところだし、その時間を自分に使う方が価値があるだろうからスルーして、その時間でニコマコス倫理学を読んだ昨日。きちんと選べている。

 

本日ピーマンの棚に張り紙が貼ってあった。レシート呈示すれば返金します、すみませんって。まぁ抽象的に頭数として雇い雇われるならこういうリスクは企業持ちよな、と。

 

存在が薄くされている労働者。

 

そんな現実世界を通り過ぎ家路につく。雨上がりの夕方、紫陽花が昨日より元気そうで何より。人を見かけなくなった頃にマスクを下ろし、空気をいっぱいに吸い込む。ちょうどシロツメ草が蔓延っている横で、雨によって萌えて草の匂いがむんむんして、不透明さが心地良い。そうだ、自然の草ってこんな香り。森とちょっと近い。

 

本日は年下の上司の誕生日だったとか。人の誕生日というのは良いものだ。

 

帰ってから、ニコマコス倫理学1章分と昨日の土地所有権の放棄のPDFを食べる。文章を食べるという概念は僕のオリジナルではない。歴史上では本の師匠がそうだったし、キャラクターでは文学少女となんとかシリーズのヒロインがそうだった。あと、かの宮沢賢治さんもそんなことを書いているらしい。「食べること」が何を意味するかを突き詰めれば素朴にありうる。

 

ニコマコス倫理学は、善という目的が魂からきていると述べる。素朴として、当たり前とか常識とか今の人生論とかより、魂といううごうごしたものであれば忌避感がない。内側からきている感じがなんとも。

 

所有権の放棄の話は、所有に「価値」があるフィクションが揺らいでおるという感じで面白かった。かつては土地の広さが富と一致していたのに、いまや、土地所有権を放棄することは国(自治体)に管理コストを押し付けることになるから権利の濫用だという裁判例もあるのだとか。権利は自明なものではなくて観念的な線引きでしかない。

 

 

権利と同じようにタブーも観念上の線引き。吉本隆明さんがバタイユを語る章で近親相姦的事例が自然なことが多いといくつか挙げていた。個人的には確かに母とか姉とか妹とかの家族は初めの異性だが、なんとなく反面教師みたいに捉えたような。誰とも性質が似てない、関係ない人をパートナーに選ぶみたいな。

 

変な話、類型的に僕を捉えない人。これが存在の濃さの一言の表現と思う。

類型的に捉えないって頭を使わないといけないから、人の脳があんまりやりたくないはず。

 

それとは別に性質的な類似はありそうな感じがあるが、まだ言語になっていない。

 

 

やれやれ。

 

かつて浜松に会いに行った友人が、村上作品の中で「アフターダーク」は随分違うと言っていたが、いま読み返してみると、同じだった。小説世界という空間の中に任意の可動的な視点がある。音楽的な味があるのはそういうこと。ついでに詩的(シュールレアリスム的)な味も追加されている。妖精的というか。

 

 

こういう新規があるのは、僕が自分で生きることを置いてけぼりにしてきたからだろう。まぁ色々耐性とか装いを習得しないといけなかったから、仕方ない。僕の中に1人部屋なぞないし。

 

という感じで、そろそろ本題。

 

大丈夫はその通りのだが、たぶんこの時期毎年調子が悪くて、例に漏れていない。

うごうごした精神世界のベクトルが過去に向かう。ただ、ここに備えていたのかしらないが、いまと未來でその分バランスを取ることができているため特に外に漏れだすようなことはない。

 

過去に依ろうとするのはなんだかっていうホルモンの作用らしい(何とかガール参照)。要は、自分の要(かなめ)を過去参照から繋ごうとする脳的な精神の作用。これの対策は、人生を劇場化すればなんとかなる。

 

劇的に自分の歴史を参照すると、人の言語と行動は全然一致していない。内心はともかく、良いことを言う。そんな言葉は要らない。だから、言葉をてきとーにしか扱えなかった幕。

 

ここと対話しないと先への昇華がないから、調子悪いのも良い。

見えるうちに向き合ってないと、歴史が繰り返されてしまう。とりあえず色々と消した今日昨日。メールの履歴とか。

 

 

涙と感情論。

 

15年前から10年前くらいのこの時節、僕は結構よく泣いていた。最初の自覚的泣きは父親の葬儀だった気がする。左手で打たないといけない釘を右手で打って、妹に間違えたっていいながら。いやその前に、飼い猫の死に対して1人で布団に包まって泣いたときもあった。

 

涙もろい期。大学時代の最初の恋人さんと1ヶ月で別れたときにも泣いていたし、もっとも長く過ごした恋人さんと離れたときは長く泣いていたし、別れ際も凄かった。

 

ただ、長く過ごした恋人さんに対して何が哀しかったのかというと、浮気させてしまったこと。自分が足りないことに泣く。傷つけると分かっていたのに云々という言葉に依ってさらに混乱していた。

 

要は、どこにも受け入れらようとして泣いている訳ではないということ。こういう涙はどこにも行けないから止まった。自分に同情する涙は要らん。

 

人と世界線が交わらなくなる悲しさの表現としての涙が本質であれば、ありえて良い。その存在ともっと現実的に接して居たかったのだって。

 

まぁ、僕はいまの方が大事だから過去の諸々の訴えは情報として活用しようかというくらいにできるようになった。誰も教えてくれなかったが、なんとなく。

 

感情論も涙とセットになることがある。僕は直に接して居る人が泣いているのは何やら愛おしさを感じる。別に現実的浮気した訳でもないのに、僕の存在が足りないって。この文脈だったら嵐は収められるし、なんの理不尽もない。

 

弱っているから付け込めるというのとも違う。弱みを公的に表現できる人は公的に遊戯してくれって感じ。大丈夫、それで誰かとまた番える。

 

僕にとって感情論の原初って、母親の対話不可の機嫌の天候みたいなところだったから、対話することができないと思っていた。嵐が過ぎ去るまで待てばけろっとなる。ただの類型的息子。

 

昨晩、そうじゃなくて相手から存在が重く捉えられているのであれば感情論とも対話できるんだなとなり、なんだかすっきりした。その感情論があまりに筋が通っていて、感情論ってこんな感じだったっけと錯覚した。なんと礼儀正しい暴れん坊。

 

まだうごうごしていますが、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。