とろみ記念日

 

 

 

 

1週間があっちゅう間。過去の諸々が押し寄せてくる調子の悪さにいまが全然負けていない。むしろ時間性の垣根を外すこの作用を流用してうごうごの潤滑油しようと目論む。

 

過去の想起は、その時間に価値があるとして出てくるのだが、価値として捉えないようにする。ここで無為を体得できれば、仕事時間もすぐ終わる。その時間が無ければ何ができると言う空想は不可能性の領域だから、そこで何を考えても実際時間ができたときには動けない。ここでの時間は流れというより絶対的な敷居。

 

これを受け止めてというか受け入れると、敷居の外にはなんでもあることに気付ける。

敷居の内にある時間をあくせく考えたところで、そのうち終わるのだから、もっと時間以外を見るべし。

 

さておき。

 

激しい雨音は天然の子守歌。昨晩のBGMの提供。早起きの隣人が相変わらず洗濯機を回す。時間を見てみたら7時。農村だったら朝としては遅いし、学生でもちょうど良かろう。ただ、ここはそういう人の寮ではない。まぁ、特になんともなく寝られるようにはなっている。ほんとに過敏な時期は、水滴すら気になるし、いびきなんてもってのほかだったろうし。

 

過敏であることと世界を敏感に捉えることは別なのだろうな。

 

出勤は濃厚な曇り空。涼しくて丁度良かった。赤白帽子を被った幼児達が横断していて列が通り過ぎるまで待っていたら、反対側から車が来て、引率の先生の指示で幼児の列が割れる。大縄跳びみたいにタイミングを合わせて縦断したが、車は通すのに人は通さない分け方が分からない。交通量が多い場所ではないし、人も車も1つしかなかったのに。

 

きっと存在感なのだろうな。

 

 

昼休憩に、公園の喫煙所の近くのベンチに「喫煙区画以外は禁煙です、ルールとマナーを守りましょう」という張り紙を見かかける。というか、この前の清掃員が来たときから見ていたが。

 

ルールとマナーをいっしょくたにしているのは、これを書いた人が同じようなものだと捉えているからなのだろうな。行政の面白定型文としては、便座がない様式便器の個室で、「感染予防のために便座を閉めて流してください」とか。まぁ、縦割り行政の中で疑問に思ったとしても貼れという指示があれば貼るだろう、いや、実は疑問にすら思っていないという説も。

 

たしかに、ルールとマナーの共通項は、ある「場」において、それを持ち出せばやんわり強制力が働くというところがあるから、言っとけば勝手に従ってくれる。任意ではない真綿みたいな縛り。この個人主義のご時世において、これが通じるかと考えると、なかなか難しいところ。それをしないと不利になるぞって村八分的な思想を背景とした共通項なような。

 

マスクをしないと印象的に悪くなるとしても、煙草を吸う人はある層からはそもそもマイナスなのだのだから、ルールとかマナーを守ることにインセンティブがない。罰金も煙草は実は健康に悪くないことが証明されたらどうなることだろう。

 

日本の中世史で、夜に稲穂を持って歩いている人は問答無用で死刑という話があったが、無理矢理マスクをさせる欧米とちょっと似たところがある。画像でちらっと見かけただけ。

 

個人的な解釈の違い。

 

ルールはスポーツに準えて、場が狭い区画でそのルールを承認している人達が相互に守るもの。車の運転もそうか。要は、場における最低限の行動規範だから、守らないとその場に参画できなくて、排除されるという最低限の行動規範。

 

法律が国単位でルールの区分けを設定している。

 

マナーは、ルールの中でどう振る舞うかという個別的な領域であるはずだけど、ここにもさらにやんわりしたルールが形成されていることが多い。ルール的にもマナー的にも問題なくても排除されることがありうる印象論の怖さ。

 

こういう語用を規範としてもっている人は基本的に怖い。だってここって、基準にしてしまえばこれについては思考停止して良いということ。母親とこの前通話したとき、「マスクはしとけよ」って言ってきたのだが、免疫とかウイルス自体はマスクの網目より小さいとか考えることなくとりあえずしとけよとなる感じ。

 

まぁ、思考経済上、なにについて考えるかは絞らないといけないという意味で、考えなくても良いことがあることは大事。ただ、ルールとマナーに従ったところで、日常生活において考えたり悩んだりしなくても良くなることはない。他責の世界では自由にはなれない。

 

ニコマコス倫理学の良いところは、善とか美は思想ではなく実践の中にあると言ってくれること。快い(好き)なことはそれを行動しているかどうかによる。つまり、快だからするのではなく、しているということは自分にとって快なのだということ。思想的に好きだけど、実践的に、まぁいいや。

 

そろそろ本題。

 

僕は料理はしんどいものだというマナーを排すると、好きだからやっているで良い。試行錯誤で上手くいくと嬉しい。本日も中華料理のとろみがダマになっていた歴史を改変した。マーボー茄子の完成度高い。ついでに、誰かに食べて貰って美味しいと評されることも嬉しい訳で。

 

だとすると、文章だって同じことであるはず。違うのはレシピがブラックボックスで調味料も共通項はないから、物体として存在しないこと。だから人がたくさん読んでくれることに嬉しさをストレートに感じてはいけないというマナーが設定されているような感じ。

 

嬉しがるって、関係でしかいけないというマナーだが、関係とは無関係に嬉しがってしまう。自然の景色が嬉しいとか。関係として何が返ってくることを目的として僕は動いていない。

 

たぶん、普通の人はこんな施行をしない気がする。自分の現実的言動を解釈してみる思索。もちろん、発したこと、動いたことは他人にも観測できるという意味で現実であって、その現実をどう解釈するかは相手に依る。奔放性もふつうはないのか。

 

とはいえ、僕は自分の語用は、きちんと区分けしているのだろうなという信頼があるから、書いてから解釈する。

 

「全部」好きと「全体的」に好きの違い。かなり微妙なニュアンス。対象が1つの存在であればその領域の全部であるが、対象の中で存在が個別であるとすると、区分けが細分化されて部分部分として全体になる。

 

あと、生活的行動の解釈。

 

僕が料理をしてきたのは、長く過ごした恋人さんが作ってくれていて、そこに依存してしまった自分が嫌だったという解釈が起こる。相手がしてくれるから好きだというのは存在として自律してないということをお別れから学習した。

 

あと、パートナーに対して怒って良いと言う関係も個人的にはありえない。

これは僕が生まれ落ちた家族関係がそうだったからなのだが、怒ることが人間の自然とは思えない。子供がおって、怒ることで安全を守るという怒号なら分かるが、パートナーを怒ってけなすって、自分が選んだ人なのにありえなくないか。

 

僕はこういうマナーは除外することにしよう。

素朴はしていたのだが、最初に学習したマナーがめんどくさ過ぎて。

 

明日はどこかの森に行くつもり。

 

幸福ですわ。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。