採取

 

 

夢ダイジェスト。

 

親戚の集まり。祖父・祖母を欠いた母屋に集まっているのだが、なんとも殺伐としている。イベント事がタイムテーブルに従って行われるところに、なにやら嫌けがさしていたら、尺八を一同で演奏し始める。僕は練習していないらしく、しれっとそれっぽく座っていた。

 

儀式とか祭儀って運動会とか学芸会みたい。厳かというより演技の極致みたいな。

 

その後自分の人格が細分化され、なにやら6人くらいの大所帯だった。双子も居る。実際は名前が付くような乖離はないが、ハンネの区分はある意味そうなのか。

 

日曜日に読んだ漫画の影響で、「挨拶おばば」という都市伝説的な怪異との戦闘。挨拶に応じると呪われて退場させられてしまうという設定らしい。双子の妹を守るために坂を駆け上がって来るおばばに球を投げて応戦し、阻止する。おばばの去り際に痛み分けという感じに手を上げたことに応えて手を上げてしまったことが挨拶認定されて、その夜に中空に浮かぶネックレスに絞首されて退場してしまう。

 

ただ、人格の6人設定がここで生きてきて、人格の1つがブランクになるだけで、肉体は退場しなかった。

 

現実に帰ってきて、カルピスを飲んで二度寝。うちにアナログ時計はないはずだが、なにやらチクタクと音がする。発信源を探ると、スマホっぽかった。幻聴なのか、人間に聞き取れない音波を拾ったのか。どちらでも良い。あろうがなかろうが寝られるし、起きられるし。

 

 

夢の定義として脈絡がないのは当たり前だが、この夢を起点として、母屋の光景が鮮明に想起される。幼少期、家の方には誰も居ない(居てもいない)から、結構入り浸っていた。おじいちゃんも好きだったし、迷宮めいているところもあるし(日本刀もあった、もちろん鞘から抜いたことはない)、心地良かったのだよな。何かくれる訳でも聞いてくる訳でもなくただ居て良いのだという感じ。

 

祖父も祖母も喋らない人ではないのだが、僕に対する会話的発話はあまりなかったような。命令もないし、危険なことに気を付けよ、はあったが、なんだったのだろう。あの心地よさ。

 

僕も人に何かを聞きたがるという子供でもなかったし、本を読んだり自然を眺めたりしていた感じ。

 

そんな感じが「問々」のときの人格。言葉で聞いても返ってこないが、一生に遊ぼうかと問うてみると「うん」とノータイムで返ってくる。

 

そんなこんな調子が悪そうな感じを乗り越えた。人からの純粋な肯定は打算かどうか判別できないから、弱ると疑いが生じる。ただ、純粋な自己肯定は証明不要。僕の場合は一緒に遊びましょうだったが、こういう対話はきっと人それぞれ。最大公約数としては、外に自己肯定の根拠を求めるのは悪手だということ。どうあっても外は移ろう。

 

ともあれ。

 

本日はかなり元気。この元気さは、文章では読み取れるかもしれないが、現実においてはほとんど変わらない。ただ、自己観測上では全然違う。ちょっとした積極性に迷っていない。創造した先取りを自分が動かないことの理由にしない。

 

例えば、休憩時間にホワイトボードにいつから休憩に入りますって書いて行くのだが、何故か同期が1つ下の違う人の欄に休憩時間を書き込んでいる。実際書き込んでいる瞬間を見た訳ではなく、1つ下の人は休憩が終わっている時間であってこの字体は同期よなという状況証拠でしかないところで、どうでも良いですけど、という前置きで上司に伝える。

 

同期が抜けていることは把握されているし、今更評価が揺らぐことはないというのある。別に粗を探っている訳でもない。ただ、見えてしまったものをスルーするのは嘘と近いよなという感じ。

 

同期、割と心配なのだが、これがナチュラルの人格なのだろうか。

 

くらいな想像を、まったく何の特別の感情がない人にも及ぼすし、本日は現実化した。

本人には言わないけども。あんまり言ってしまうと変な感じになる可能性を顧慮し。

 

そう、僕が元気なことは僕が元気であることを誇張してアピールしない限り、僕のことを仲間と思っていない人には分からない。そんなアピールはするつもりがない。1人でご飯作りながら小躍りはする。なんなら今もBGMに体を揺らしながら書いているし。

 

あんまり、人に対してこれを及ぼさないようにしないとなというマナーが設定されているのは、特に他意はない発言なのに相手が謙遜というか委縮してしまうケースがあるから。

 

他者を自己の延長として同一的に捉えているとそうなるような感じもあるが、そこに顧慮することは本当に必要なのか、どうだろう。変人具合についてこられない人は挨拶して通り過ぎた方が良いよな、たぶん。

 

向上心があるわけではないと声高に主張したい。ただ、現実の動きに言葉を当てるとそうなるのは分かる。本日、プログラミング言語の本を追加しようとなった。ちょうどコンピュータサイエンスの本に読んでいるPythonの他にJavaScriptがあって、個人的な傾向として1つのことを絶対として集中して習得することはできないから、つまみ食いしながらするしかない。Kindle読み放題にいくつかあったから、ゲームを作るという本をダウンロード。

 

Pythonの本を読んでいて構文はだいたい感じとしては分かってきたから、なんとかなりそう。ルールがきちんとあるという意味では数学とも近い。

 

未だに高校数学を読んでいる数学分野で言えばおこちゃま。高校時代の自分を顧みて、数学1Aの方程式の操作とかは問題なかった。世界が決まっているから、その後の2Bだと確率・順列組み合わせには特に違和がなかったが、三角関数微分積分は壊滅的。思うに、内部の概念的世界において空間の認識があまりなかったからだろうな。いまになってちょっとずつ認識できてきた。

 

学校のお勉強も結局は、共感と想像の領域で、どちらかができる・したい分野に強くなる。僕は何故か国語にやたら強かったのだが、よく分からない。古文も漢文も何故かできたけども、言葉って共感も想像も及ばないとこにある気がしなくもない。

 

そういえば、調子が悪そうな「問々」の昨日、「ニコマコス倫理学」が全然入ってこない。「幸福」という言葉の定義は決まっていないのに、決めつけられた言葉として満腹感。もう無理。詩は読める。詩作って読み手を決めようとしてこないから。作者が造った言語空間で寛げる人だけ寛いだら良いよって。共感を求める詩は現代の傾向なのかもしらんが、現代詩はあんまり分からない。左川さんやっぱり好きだわ。

 

短歌はもっと開放的であるべき、いや、閉塞的、絵画的、まだ勉強不足。

もっと外を眺めた反響として自己を描くもの。知らんけど。

 

幸福は活動にあるというのが今日。全然読める。

 

 

幸福が外的要因によるものだという風潮はある。何かを持っているから幸福なのだという論理。ただ、外が移ろうことからすれば、幸福は自分では決められない運否天賦になる。こんな人生劇場では遊べないというのが僕の素朴。

 

アリストテレスさんの好きなところは、本当に幸福な人は不運にも淡々と耐えられる人と表現するとこ。外観上は不幸に見えたとしても、その人は幸福だと自分で決めているから揺らがない。

 

あと、「量子力学イデオロギー」で、情報のことが書かれていて、これもちょっと幸福感と近そう。「可能性の中で複数の選択肢がある」ことが情報を持っているというらしい。いやいや、個人的には完璧な情報はないから、情報は意志的な選択を操作してないという説。

 

情報があるとしても、意識が保持できる情報なんて無意識の書庫にある量からすれば微々だから、無意識が設定している枠内でどれでも良いよってなっているだけという説。

 

世界線の飛びこえは、経験則ではできない。

 

やれやれ。

 

「食べること」が他者を自己に取り込むこという話が別の本であった。このフレーズも真理的で好き。

 

細かい話はまた今度。

 

おやすみなさい。

 

幸福に生きていますように。