夢も現実

 

 

 

なにやら二段ベッドの下で目が覚める。目の前には僕を軟禁している男の人が居て、無数のうまい棒の緑(何味だっけ)をベッドの上に落とす。僕はおとなしくその1本をむしゃむしゃ食べる。

 

「寝ている時にはしくしく泣いているのに、起きたらそうでもないのだな」と言われる。

 

何故軟禁されているかの背景はよく分からないが、「ららとりり」だか「りりとるる」だかというタイトルの演劇のビデオ(昭和時代)を質にされているみたい。その軟禁状態から飛び出すことを選んだらしい。光景は、通学路ではない実家の谷の反対側にある気に囲まれた暗がりの道。向こうに何かロゴが入っているTシャツの後ろ姿が見える。その人に追いついて、手を繋いで還る。自分の笑い声が聞こえる。

 

という夢。

 

解釈してみる。デカルトさん曰く、魂の本質は思考することであって、睡眠の脳の状態は、思考を留める器として足りていないということらしい。たしかに、夢のシーンの意味は最中には分からない。

 

昨日の夢の舞台が母屋だったからか、本日は16歳くらいまで生活していた家。子供の頃は随分広いと感じていたのだが、世界の上限だっただけで、いま現実的に想起すると、随分狭い。父親は動くのが大変だったのではと想像。玄関を抜けると右側に階段、左に廊下その先にはキッチン、さらに行くと居間がある。書棚には百科事典(読んだことはほとんどない、勿体ない)。階段を上ったところには洋服ダンスが置かれたスペースがあり、ドア(ふすま)が2つあって1つは、子供部屋兼両親の寝室、もう1つは姉の部屋だった、姉の部屋のにはドアがあり、そこを抜けると階段で、母屋に続く。お風呂が母屋にしかなかったから、並列的二世帯家屋。

 

母親はこういう繋がりが嫌だったから新築で少し離れたところに独立した住居を建築したと推測されるのだが、逸れるから止める。

 

随分長く二段ベッドで寝ていた。上だった頃も下だった頃もあるが、いま想うと、閉塞のシンボルだったと解釈。下だと上に寝ている存在の圧力を感じるし、上だと自分が動くことできしむ音が気になる。もちろん当時はこんな感覚なくふつーに寝ていたが、おそらく認識できてなかっただけ。

 

家族だって他人だし、いまの意識で当時に戻っても僕は母屋で寝るだろうなという感じ。母屋で寝るときは祖父と添い寝したり、座敷に広々布団を敷いて寝たりできた。母親は父方の祖父母が嫌いらしく入り浸ることを渋っていたが、なんだかんだ楽だったと思う。

 

血の濃さがあんまり分からない。濃かったら僕の寿命は父親に倣ってあと10数年くらいだろし。そうなっても別にええわという感じはある。長生きすることより個人的に大事なことはあるみたいだし。

 

軟禁状態について。一応モデルは幼稚園から一緒に過ごした同級生だったのだが、ほんとに深みに入りそうなことはあった。「アフターダーク」風に言うと、人が立っている地面は実は強固でもなく、ふとした瞬間に堕ちることが起こる、みたいな。

 

人を拘束するのは強制でも暴力でもできるが、これはこの社会では許されていない。だから、許された中で、真綿で締めるような拘束の方が危険。手段としては、貴方はこういう人だって言い聞かせること、もしくは常に駄目だと否定すること。飴と鞭的な感じ。

 

この拘束って緩いから、自由であって自分の意志が決めているという現実感はある。

ほんとはそれが操作されたものだとしても、気付けない。

 

シュールレアリスムとは何か」でユートピアの概念が歴史上ほとんど変わっていないという話。外界から隔絶されていて強固な守護があって、そこには厳然たるルールがある。とかなんとか。

 

調和はあるのだろうけど、遊びはないなぁ。

 

 

最後のシーンは、僕は僕で笑える人と笑いあえることが幸福という感じ。

愛想笑いではなく破顔。

 

 

という感じだが、別に夢の世界に溺れている訳でもなし。

ニーチェ曰く「人は夢の中で将来の準備をする」。夢はあくまでこれからの道具。

 

仕事でも、あんまり区別がなく動くし観測する。自分以外の誰かの仕事を減らすにはという視点とか、仕事の手順を楽しむのは、遊びがないとできない。仕事のやりがいみたいな自意識があったところで何か成果が変わるとは、あくまで個人的には思わない。閉塞感が否めないからしんどくなる。

 

そういえば、昨日休み明けで財布をカバンに入れ忘れたことに気付いたのが、家から出て2分くらいの最近オープンしたコインランドリーの前で、随分反応早くなったなと自己観測して、現実的な大事さの重みについて思索している。

 

一般的に大事な物を素面でも落とす人が居る。僕は酔っぱらって自分以外はだいたい落っことしてきた。財布、鍵、携帯。自分も危なかったが。

 

ここで考えるのが、むかーし、無茶苦茶忘れ物をしていた学校時分。給食袋とか、パンを机に放置してカビパンに進化させるとか。これって、いまから考えると在りえない。

 

ふつーに綺麗に過ごせる人は、きちんと社会をインストールできるのだろうが、かといって、社会が集積した知見を採取することもあまりないというか、ここは違うな。

 

要は、失くしてはいけない=大事でもないし、不便=大事でもないという素朴がある人が居る。これは直近の元恋人さん(この呼称はまだ使える)が、母親から貰ったブランド品のストールを失くして悲しがっているのを聞いたときに浮かんできた疑義。

 

大事にしているところが違うのではない?

って素朴は言いたかったのだろうが、主観的に大事になっている以上、言えなかった。

 

これをもう少し穿つと、外から大事にしなさいというルールに主観が従うことに従順になれる人と反発が起こる人が居るという想像が起こる。

 

この不便になる、相手を大事にしているという体を見せるためのマナーが現実感としての重みであれば、僕は現実で生きていなくて良い。

 

個人的な関係において不便さが解消されるから大事という尊重の仕方は、相手のことを存在としていないような、まぁ個人的には、ここを大事にしてきたから今まで未婚でありえたというところ。

 

結婚しないという社会関係が揺らいだところでも共同生活はできる訳で。

重さよりも濃さの話。濃さには重量はない。

 

やれやれ。

 

現実感という重さを伴った概念は排して、人生劇場における「実感」で良い。

 

この意味での実感は、結局のところ、自分の存在が絶対的にどうであるかを把握していく試み。

 

プログラミング言語が楽しい。JavaScriptまで至ってないが、特に何かの目的がなくても詩採取できるのが素朴。HTMLのコードの意味ってそういうことか、インターネット世界の仕組みの把握。

 

何かしたいことがあるかと問われても、特にない。

 

別に存在ってそれが無くても在るし、登場人物として主人公と等価にしてくれる人なら一緒に遊べそう。

 

関係における等価性は、相手が自分にとって便利であるかではなく、自分が相手に対して便利になりたいかに比重を置いた方がよさそう。

 

僕は便利な人とは関係したくないけど。

だって、自分がしたいことをしてくれてない。

 

はい、おやすみさない。

 

良い夢を。