1時間残業となると帰ってから座るいとまがない。1度諦めたkindle端末だがプログラミング言語の本を見ながらPCをいじるならスマホでは画面が小さいなと帰り際に頭に浮かぶ。1つのことだけに意識を向けて考えることは苦手だが、頭の中では並列的に思考されているような感じ。夕空をよく見たら三日月までいかない一みたいな月も浮かんでいた。

 

夜ご飯はあまり時間がかからないように食材をチョイス。鶏もも肉、ピーマン、椎茸、もやしで酢鶏のようなイメージを表現する。とろみ付けを怖れるな。完成品はなんとなく洋風になった。オリーブオイルとかコンソメ使っているからそうなるか。ただ、お弁当に入れるのだから、とろみはもっとどぎつくても良かった。箸で食べるのが大変だろうな。

 

 

本日のBGMは宇多田ヒカルさんの「光」。

 

夢は素面で道路に寝転んでいたら、同期があの人ほんとはそんな人ではないのですみたいに弁明していた。なんのこっちゃ。アスファルトに寝転ぶ感触って気持ちいい、という幼少期があった。なにせ目に付くところに人が居ない。まれに車が通るが、ほとんどが知っている人という。

 

この弁明で想い出したのが、ずっと前、どこかのインターネット世界の辺境で僕の文章を好いた人が、自己紹介みたいなことを書いて欲しい、いや、ここでも書いて欲しいみたいな感じだった。なんにせよ、リクエストがあった。たしかその頃の思索は、心理とか人格の形成過程に焦点が当たっていたような。あの頃の文章の方が読みやすいかもしれない。

 

という感じで、何を想ったか、僕は好きな漫画・アニメ・ゲームのことを書いた。浅いことを書いているという感じになって、当人は僕がもっと深いことを考えているのにとやきもきしている。

 

思索に軽重を置いてないから、どれも同じなんだけどーなとか想っていたような。

 

あれ、経緯を全然覚えていないのだが、夢の話だったっけ?

いや、無意識に手綱を任せたまどろみ時代だからか。それでも考えることはやめてなかった。自分が断片ではなくなったのがほんとここ3、4くらい。

 

「石の上にも三年」というが、人とあまり物理的に関わることなくこれくらいの期間、自分で過ごしたから自分のことが分かってきたのだと思われる。面倒臭い人格だが、1度分かればあとはどうとでもできる。

 

このご時世は僕にとってはほんと都合良かった。プライベートは誰とも過ごさず、淡々と料理を作り、書を読み、文章を書く。社会的な生産性は全くない動き。いや、稀に劇評で対価をいただくことはあったが、面白いのは知っていたから趣味の領域。

 

この現代、普通は相対的にしか生きられないから、自分を絶対的に見つめる機会はほとんどない。コミュニケーションの断絶のご時世によって自分とコミュニケーションを取ることができるというある意味棚ぼた。

 

そういえば、本日のお風呂読書で、コンピュータサイエンスの本が、電話は通信に革命を起こして進化したが、「世界平和も相互理解ももたらさなかった」というフレーズがあって、ほんまやで、と。要は繋がっているという仮想空間が拡張されただけで、疎通は平安時代の歌を交換していたころとそんなに違いがない。個人的には自分の言葉を吟味して綴っていた過去の方が繋がっていたのではという感じがある。いや、厳密には「繋げようとする衝動=恋慕」が強かった、みたいな。

 

なんだか、文章では小難しいことを考えているのに、現実ではちゃらんぽらん(緩い)と評されたことに対して述べたいことがあるらしい。

 

僕の中では小難しいことも緩さも1つの人格であって、区別がない。たしかに現実的な表象という意味合いにおいて、僕はこの思索領域を誰かと共感しようとは思ってないから、「言葉」として現実に生きられる訳ではない。ただ、僕は思索を物理的な存在と別個のものとしていないから、考えている「言葉」は現実に反映されている。指示ではなく表現として。

 

この文脈で、自己の現実を言葉で描写するのが日記という媒体であって、そうなるとあくまで「記録」になる。では、未來に向けた「言葉」なんぞや。「意志」ないし「選択」。僕はここの意味での言葉と現実の繋がりに壮大な疑義がある。

 

現実的な自分の動きは確かに自他からの言葉(情報)に影響はされているのだが、物理学上の因果関係は全くない。この意味で言えば、息をするとか胃が食物を消化するくらいのことしかなくて、こんなの動きではなく単なる「反射・反応」。

 

僕は思考(意識の言語)を何か正しい現実的な選択をする試みとはしていない。現実的な動きの面で捉えれば、僕の主導権は意識にはない。広く広く考えれば、「神様」の概念を持ってきても良いくらいのところで現実的な動きは決まっている。歴史的な運命論の概念でもないし、スピリチュアル的な思考の現実化でもないところ。

 

素朴なところだと、天気に対してどう捉えるか。

雨だと動かない、暑いと動きたくないって、誰が決めているのだろう。そのブレーキがあっても動けることがほんとの意識の選択性であって、情報がどうとかという話ではないような。

 

今の自分があるべくそうなっているという感覚、昔は宗教的な価値観を持ってこないと表現できなかったが、今はもっと素朴で良くなった。自分を神様に設定した「そういうものだ」という信仰。

 

 

やれやれ。

 

なんだかよく分からない話になってきた。まぁ僕は何に対しても専門家にはなりたくなったのだろうな。なってしまえば、その枠で自他から捉えられる。

 

称号が付かないただの匿名的な一般人で良い。

 

そもそも、認められるという繋がりは誰かを対象としていて、対象がない方が僕は動けるらしいし。

 

僕には師匠とか先生は人格に限定されず氾濫していて、模範的な人格のイデアみたいなものがない。この人に倣えば良いわっていう依存性を誰に対しても持ちえない。

 

とか言いつつ、人のことを恋しくはならないけど、なんだかんだ好きであるという機微も会ってややこしい。仲間的な繋がりはできなくても人と接するのは好きらしい。でなければ外界の文章を読めないはず。

 

ここの遊びがある人格に出逢ったことがないからやきもきしていたが、そういうもんだとすれば良い。求めてないけど、好きみたいな。

 

 

あとはここをどう使うかということ。

 

僕を待ってくれる人は逃してはいけないし、

 

 

あれ、ここまでか。

 

まぁいいか。

 

おやすみなさい。

 

良い「光」を。