山と森

 

 

 

紫陽花の染まり始めのグラデーション

予感を肴に飲むビール

喉越し音は森に吸い込まれる

 

 

 

本日は山に登って反対側から降りてきた。全部徒歩。

 

 

朝起きて、うどんを茹でて昨日の残りにタルタルソースにめんつゆを少し足して和える。美味しい。コーヒーを飲みながら大阪の紫陽花スポットを吟味。とはいえ、どこの見頃ももう少し先らしい。長居公園がフェアをやっているみたいだが、ユートピアみたいな人工的に調えられた自然の気分ではない。もちろんこれはこれで良い。一種の自然を使った芸術作品みたいなものだし。

 

その中で、ハイキングコース40分というフレーズに惹かれたスポット。なんだかかんだ最初に目に入った所だった。最寄り駅から1時間くらいで駅に着く。近鉄線の生駒駅。下調べせずに勘違いしていたのだが、本当は、ケーブルカーに乗って山頂に行ってからの40分だった。コンセプトが「予定はざっくりとしか立てずになりゆき任せで、目的の達成不達成を問わずとにかく楽しむ」だからなんの問題もない。

 

駅を降りて道路脇の斜面を登る。1人しか通れない歩道だが、何人か行き交う人は避け方が慣れている。きっと地元の人。斜面でも家がいっぱいある。この辺に住んでいる人大変だろうなと想ったが、住めば都なのか。車道はあるから移動は事足りる。こんなところに生まれた子供は健脚になりそう(なった)。

 

そこから唐突に登山道。といってもケーブルカーの路線沿いだからいつでもドロップアウトはできるという補助線付き。あと、個人的には石段みたいな道が足裏にダメージ。トレッキングシューズの導入を本格的に考えるべきか。土の道だったら問題ないのだが。

 

人の密度は低いが、降りてくる人が挨拶してくる。もちろん返す。

ハイキングは陽の趣味なのか。

 

アクティブなのか、もやしの陰の者なのか意味分からんと最近言われたことが意識に浮かんでくる。なにせ僕の見た目は山登りをしたり、街中で10キロとか歩くようなフォルムではないもやし体型。触れば中には柔らかな筋肉があるし、これでこと足りる遅筋。自然で1人になりたい性質は植物的という意味では陰だが、日の下の行為であってややこしい。行き交う人に敬意を払う挨拶も好きかもしれない。僕の中の陽の者は、実は仲間しか人と捉えない日の下で活動している陰の者的な節がなくもない。

 

登山は、ほんと汗だく。重力を体感する。道中の脇にある石に遊び心を持った人が石と葉っぱでへのへのもへじ様の似顔絵を創っていて、ほっこりできるくらいには余白があった。

 

という感じで山頂に辿りついたら遊園地だった。陽の者の密度が一気に上がる。行き交う人に挨拶しているいとまもすきまもない。登山で発生した熱を発散させるための暖かい汗と、お腹の調子が悪い冷や汗が一緒に流れていたから、トイレ休憩には良かった。ビールの自販機もあったのだが、アサヒ一色でおおぉ、陽の者(とりあえずビールの者)のビールしかない。ふもとのセブンイレブン一番搾りを買っておいて良かった。

 

ここから1時間程迷子になるのだが、省略。

 

やっと40分のハイキングコースに辿り着く。道が土で安心。足と心が元気になる。40分もかかってない。たぶん半分くらい。あじさい園だかルートだか。全然整備されていないのがほんと好き。一応車が通れるようなアスファルトはあるのだが、車の気配はない。人の気配もほとんどない。

 

たぶんあと1,2週間したら凄いことになるだろうなという紫陽花群の予感。これだけの量のすっぴんの紫陽花を見ることもないだろうし、人が居ないことで楽しくなる。稀に先走って一色になっている方もおり、「ありがとうございます」と呟く。森の音に吸収されて誰も僕のことを変な目で見ることはない。

 

自然に行くことをレジャーとして捉える人っておそらく何かエネルギーを得るみたいな感覚があると想像するのだが、個人的には、現世での溜りを発散させてくれるという感覚。好きなものは好きで良いし、ありがたいことはありがたいで良いという、きちんとした循環という自然の秩序に浸れる。

 

人間の秩序にとって、自然はきっと無秩序に見えるはず。ナマの蛇とかオオスズメバチとかもいらっしゃった。池には僕の握りこぶし2つ分のカエルさん。オタマジャクシもいつも5倍くらい大きい。

 

この辺りで想っていたのが、「1人で謳歌できる人は2人でも謳歌できる」というフレーズ。

誰かと生きて減るものはないように生きられる。

 

そうして、アジサイロードが終わると、勝手知ったる我が家みたいに、実家の道ととても良く似た道でまた楽しい。どっちに行ったら駅があるのだと看板を凝視していたら、地元民っぽい自然を愛でてるハイキングのお爺さんが話しかけてくれる。

 

「どこに行きたいのですか」

「どこでも良いから駅に行ければ」

「そしたらあっちの道路を3キロくらい行けば駅に着きますよ」

「ありがとうごぜぇます」

 

徒歩3キロくらいほんとすぐという感覚。ただ、来た道を3キロ戻るのは精神が萎えるかも。物理的な距離でさえ、現実的な感じ方によって伸縮する。現実的相対性理論

 

見知らぬ人と会話できるというのは「陽の者」の性質なのかもしれない。

でも、会話という語義で捉えるなら、インターネットに綴られる独り言だって会話みたいなものだし、陰陽に厳密な区分けは無い。

 

下山道、やたらと寺とかお賽銭を投げるところがあったから、財布に貯まった5円玉を流してきた。実生活で現金はあんまり使っていないのだが、ふと気づくと5円玉が増えている。1説としては、ローソンのハニーラテを現金で買うとご縁が増えるのでは。

 

ついでにそのまま帰るのがなんだかもったいなくてエヴァ初号機が暴走するのではと、パチンコ屋さんに行ってみたが、1人で行くとお賽銭になってしまうらしい。暴走は全くなく、社会にいくらか流した。お賽銭よりは合理的。隣の隣の人がバンバン叩いていて、怒ったところで当たらんですしとか。

 

トータル、とても楽しい1日でした。

保持するより循環が好き。人の実生活も留まっているとも捉えられるが、循環とも解釈できる。

 

思索パート。

 

たまたまnoteで流れてきた記事。理性によって感性が阻害されるという主張。受験生でお勉強が理性を担っていると捉えるしかないから仕方がないこと。感性が詩作にあるというのは目の付け所が良き。ただ、個人的には理性と感性は排他的な関係にはない。

 

左川さんの散文で、詩は言葉の勉強をした上で、思唯の言葉で空間を満たすことというフレーズがあった。何かを感性で捉える為には語彙が要る。

 

言葉を担うのは理性の領分だから、感性を表現する為には理性のバランスがあってこそ。何かを創造(想像でも良い)する余白はなく自分劇場の主人公であることが手一杯という人は多くて、そういう人の見解に依拠する必要はない。

 

まだ先があるのだが、今日はここまで。

 

誰かを否定しても自分は肯定されない。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。