早番から遅番の切り替わり。やたらと眠くてたくさん寝たが微妙に嫌な夢を見た。嫌な夢の舞台はいつも親族周り。
またも何かの集まり。停めてあるワゴン車の中で本を読んで居たら、何か荷物(飲食物)を運ぶらしい。何気なく親切心で持ったら、「そんなの当たり前だろう」と言われて萎える。移動時はちょっと楽しい。ワゴン車の後ろに1人用の自動運転の近未来的なフォルムの車が三列縦隊で並んで付いてくる。景色も良かった。
その後、大き目の部屋で宴会の準備が始まる。1人1人なんだかんだ自分の食べる分を取り分けているのだが、僕のお皿はなんだかんだ空っぽ。小さいポリ袋に入ったまるごときゅうりを持って歩いていると、叔父さんが、「この場には気分が変わっているところが一箇所あるがどこか分かるか?」と大っぴらに問い、注目される。思わずきゅうりを置くと、叔母さんに「きゅうりを隠して」と言われ、「いや隠してない」と返しつつ、内心、「どういう意味の気分だ、気分で色々あるけど、、、」とか考えていて、言葉を発する前に夢が終わる。
従兄と遊ぶのは楽しかったし、叔父さん叔母さんも別に悪い人達ではないが、微妙な不自由な磁場が苦手だったのだろうな。自由な振る舞いは赦されておらず、心地良さは演出、みたいな感じ。まぁ実際の歴史では割と飄々と過ごしていたが、僕が無口でぼーっとしているのは、基本的に自由な発言が赦される場がないという残滓な気がする。大丈夫な人に対しては結構話す。
グルーミングとしての言葉が扱えない。
そんな感じで、発言について思索する出勤の道すがら。暴風に舞う霧状の雨に、傘差してもあんまり意味ないなぁって感じつつ。自由な言葉を赦す教育論ってあるのか。言葉は思考自体ではないが、思考を可視化する道具ではあって、この道具の扱いを義務教育の中で教えることは可能かというところ。
僕が受けた学校教育だと、挙手であれ事前に当てられているのであれ、問いに対する発言しか赦されていない。音読も教科書の文字という正解をなぞる(僕は詰まるはどもるはとても苦手だった)。こんな中、道徳とか倫理とか時々、グループで自由に発言するとかいう場が設けられたとしても空気的な意味での正解の発言ができるだけで、自由な思考(言葉)を促すことはできない。集団の中で安全を図らないといけないという意味での不自由もある。
「シュールレアリスムとは何か」の「ユートピア」の話で、人が一番不自由なのは自分が自由だと思っている時だというフレーズ。自由は与えられるものではなく獲得するものだとか。
今日立ち読みした本で面白そうなのがあった。「ネガティブ・ケイパビリティ―答えのない事態に耐えられる力」。個人的にはここに自由があるような感じ。人間はまだどういう局面においても真理に辿り着いていない。辿り着けない存在であるでも問題ない。
まぁ、これを醸成するような教育をしたら国家が成り立たないという危惧はありそう。そんな人材は教員にはならずに学者になっているという節も。大学から先との区分けなのか。自分で問いを創造する自由。
初等教育において何を習得させるべきかという問いも面白い。
3くらい昔前は「読み書きそろばん」で、今はどうなっているのだろう。コンピュータサイエンスとかネットリテラシーとかもやっているのだろうか。高校はよりけりだろうけど、共通一次が、国・英・数、あと歴史とか政治経済とかか。今もやっているのかは知らない。
教養として知っておくべきこととすると、歴史とか政治経済は国家としての功罪の文脈として教えられるべきだけど、巧妙に暗記科目として無味乾燥になっている。人の性質は不変だから歴史は繰り返すみたいな教訓はオブラートに包まれて。
「統計学は最高の学問だ」で、数学教育は統計学に合わせて再構築すベき、という主張があった。たしかに、数学という学問が現実世界においてどう使えるのかという意味合いで理に適っていると思う。経験則としての主観を一般まで拡げるよりよほど目が開くはず。
法学をどう扱うかという話も考える面白い。
憲法前文を暗唱させるなんてもってのほか。憲法が素朴に正しい訳でないというのは現代の若い人なら空気で感じているはず。学校でやったとしても、きっと劇場感というか他人事になる。
法学を今からしようとしているオトナに対する入門書として推せる書籍を考えているのだが、教養としての法学本ってあんまりないんだよな。基本的に資格試験向けのニーズがあるから、法を思考する取っ掛かりではなく、現代の法の正しさが書かれている。
自由の概念の誤解を解くような本って、おそらくロックとかルソーとかホッブスとかの自由を獲得しようとしていた時期の本(まだ原典は読んで居ないけど)。違う分野で同じことをしているというのも面白い。
法の思想の原初は社会哲学みたいなところにあって、人が従うべきルールという発想ではなく、統治者が設定すべきルールとはというのがもともとにある。という感じ。
法的(ルール的)判断は普通の人がやっているという話は面白かった。あの本のタイトルなんだったっけ。それをなるべく普遍的にしようとする学問が法解釈学。もっと具体的な話は聞きたい人が在ったらするという感じ。
集合的な主観を問題としつつ、判断は個人(裁判官)がするから、裁判官の個人的な感情で何かしている訳でもない。距離感。
文字離れしている昨今、判決も動画化になるのかもしれないな。
文字というメディアは現実感からしたら時代遅れなような。もはや芸術の領分。伝達の領域で言葉を遣ってイマドキでもないような。知らんけど。
僕はグルーミング的な言葉を扱えないし、誰に共感されるような文章も書いていない。でも、どの時系列でも存在として認知してくれる人は居る。これをなんとなく申し訳ねぇと想う。
存在の認知を自己だけで確立できているから。
だから、人と接するのが楽しい。
表現としての作品が自分の存在を主張するものだという観念というか壁を越えたら、僕も存在として創造できそう。小説も詩も作法はまったく知らないし、共感(スキ)を集めることで存在している訳でもなく。だったらとっくに萎えている。
僕は自分の中に在る人の存在はだいたい赦しているから、相手がどこまで赦してくれるのかが問題になる。自分劇場の経験則として捉えない人なら良き。
僕は存在するために動いている訳でもなく、存在とは連動せず動いているだけ。
はい、ここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。