考察能力

 

 

 

昨日の文章は早口だったらしい。読み返すとそうでもなかったのだが、色々詰め込み過ぎたかも。何を想っているかというより、うごうごの何処を取り出すか。

 

遅番でも日が変わる前に書き終わるようにしたから早口になっている説。

 

あんまりたくさん寝ると頭がぼやける。7時間寝たら充分だろうと、起床予定時間から1時間ほど早く起き上がり朝ごはんを食べた。ほんだし、昆布茶、食べるラー油(キクラゲ)、梅肉、わさび。ゆっくり食べる。こういうなんでもない平日にいつもはしないことをするときがほんとの自由。平日の予定調和から主導権を勝ち取った感。

 

ついでに気になっていた漫画もアプリで買って最後の2巻を一気読み。独占欲なのか変態性なのか、主題がよく分からない。二組のカップル様な男女が出てきて、1組は女性が男性にペイントする、もう1組は男性が女性に首輪を付ける。あからさまな性描写はないのだが、エロティシズムな空気感。そして何事も起こらず完結した。

 

ついでのついで。同性婚にまつわる国家賠償請求の裁判の解説を読んだ。面白い。憲法はどういった「婚姻制度」を保障しているのか。解説者は法律論として詰めてないと批判している。でも家族制度をルール(公序)みたいに法律学として語ることができるかというと、とても微妙なところ。結局憲法違反と名言したわけではなさそうだが、婚姻制度が「子をなすパートナー関係」の保障を目的としているのではなく、両性の「パートナー関係の共同生活」を奨励目的だという言。たしかに公的に前者を目的とするなんてこのご時世炎上案件になる。

 

まぁ、法律で認められても近所の目はどうなのかという非法的生活面はともかくとして、公的に1つとして扱ってもらえるのは、種々の省エネにはなるのだろうな。相続関係とか諸々。法改正が進むのかもともかく。ちなみに僕はいまのところ同性愛の傾向はないが、法的に承認されることはウェルカム。パートナーの概念の大勢は子を成して次の時代に家族(血)を承継するみたいなところにありそうだが、ここには頓着がない。もちろんしたい人はそうすれば良い、これもウェルカム。

 

涼しくて歩きやすい出勤。雨が降るごとに元気になる紫陽花を見るのが楽しい。

 

 

この流れで、仕事も良い感じ、とはならなかった。悪いことがあったとかやらかしたとかでもなく、なんだかあんまり楽しくないしお客さんとあんまり話したくない。この現象を調子の悪さと捉えていたのだが、ここまで書いていると、違った解釈になる。自由でなさということが露見している。もちろん僕は仕事として行っているから、その中でなるべく楽しく遊ぶというのがある。

 

で、仕事で遊んでいない人と話すのが辛いことに気付いてしまった。ここでいう遊びは「試行」という意味であって、ある意味「思考」とも近い。別に「いま」できない人でもしようとしている人に対しては何も思わない。遊戯って、基本的に練度を高めていくものだから、最初できなくても徐々に進めばいい訳で。ただ、その中で、貴方のスキルと経験値だったらその聞いていることにはとっくに辿り着いているよねという人が居て、そういう人に説明するのはエネルギーが無駄に消費される感がある。

 

心配で正しさを確認するためという動機ならまだ良いが、クライアントなのだから聞いたら良いやという依存とかになると困る。正しさを提供してくるものだと思っている。遊びがある人は激昂なんてしないというかできない。

 

お風呂読書で、どの空間軸で世界を捉えているのかという芸術枠の本があるのだが、日常枠でもどういう世界軸で生きているのかという層はありそう。対価を払えば思い通りになるという甘えん坊的な世界とか、もくもくと目的に適うように生きるとか、他人のことはどうでも良いとか。細かすぎてカテゴリーとして分類はできないが、なんとなく相性が良いかどうかくらいは分かる。

 

仕事場では、先生と最古参の先輩と年下上司は仕事で遊んでいるから雑談が楽しい。

 

まぁ、「遊び」という言葉に含まれる概念もプリズムみたいなものだから、無定義では使えない。「必要なことをしない」もあるし、「留まらない」もあるし、「余白」もあるし。個人的にはサボタージュの意味を含めていない。しないことは遊びとは言わない。

 

こういう意味で、遣う言葉が自分の語用と近いのかという言語界での相性もあるよな。

 

苦手なことを書き連ねることも面白いが、あえて好きなことを書いてみる。

 

最近自覚したもの。

 

1つは通話をしたあとに自分から切ってくれること。これが何故好きなのかと分析すると、相手(僕)が切ってくれるのを待つのは慮りと思わせて、待たないと何か不協和が起こるという相手の存在に対して依存がある。どうでも良くない存在という前提ありきだが、それをしても相手は何も変わらないと想ってくれている感が美味しい。良い塩梅。

 

そうして、もう少し一般的なもう1つ。

自己を分析・考察している文章が好きだ。これは就活で言うところの、社会的な強み・弱みを相対的に考察するということではなく、ただ、自分の存在とはなんぞやと問うことの言語化

 

これをしないといけないのは社会との不協和があって可視化されたという向きがあるとしても、考察できるということは自己の存在が自明ではないということであって、こういう人は他人も決められないことを知っている。だって、自分に対する情報って圧倒的に他者に対するものより多いのに、それでも分からないのであれば、情報がもっと少ない他者のことが決まるなんて矛盾している。

 

どういう人物だって表現することは問題ないが、それが人格としての既定なのか、あくまで観測した限りなのかで他者の捉え方は随分変わる。

 

む、今日は日付をオーバーしてしまう。

まぁいいか。

 

個人の人格が確証されているという概念も随分最近のことだから、持てあましているのではないかという説もありつつ、人格とか性格とか性質がどう在るかより、自分でどう生きるかの方が大事な気がしている今日この頃。

 

僕は詩のことはあまり分からないのだが、なんとなく自己考察の極致のような気がしてきている。疎通で解消できない自己を言葉に載せて昇華する遊び。

 

そういえば、「衝動性」だっけ、何かミスをしてしまうという性質の話を読んだ。

僕もそういう性質だったなぁ。学校のお勉強で、分かっているのに計算を抜かして答えを間違うとか、鍵を落として準ホームレス生活をするとか。

 

自分の取説があれば良いということだった。

 

僕はもうあんまりミスとか落としたりすることはなくなった。あったとしても、自分は落とすものだとしているから、1回で良いとはしない。まぁ、躁鬱と認定されたことはなくて、そういう時代も自分でなんとかした時期もあったなぁ。遅刻とか社会的な罪を積み重ねることになんとも思わん。すげー怒られたのだが、それどこではなくてぼーっとしていた。

 

個人的には、社会的に大事なところを自分は別に大事にしていないということを自覚してしまうと楽になる気がする。

 

大事ではなくてもしないといけないくらいのてきとーな感覚。

 

はい、この辺りでおしまい。

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。