とうめい

 

 

なんだか昨日の日記で随分スッキリしたらしい。

 

ちょっと復習。

 

あんまり細かく書いていなかった同性婚の話。憲法そのものがこれを認めているとは認定していないが、平等ではないという判断。法の下の平等のキモは何と何を比べるかにある。ここで問題になったのが性向の違い。異性に性向があるか、同性にあるかは生来のものであって、個人の意思によって操作ができないものであるが、前者は婚姻制度をまるっと享受できるのに、後者は全く受けられないというのが不平等だから、立法府が法律でバランスを取るべきという感じ。地方裁判所の判断だから最高裁までいってどう判断されるかは不明。

 

憲法の新刊で面白そうなのを見つけたから近いうちに買おう。土壌がどうの。日常の生活圏にきちんとした法律書が置いてある本屋さんはない。都市圏には住みたくない。

 

 

僕はニュースで語られるような一般的な社会の動向にはとんと食指が向かないのだが、分野を絞った最新情報はまぁまぁ気になる。古典が最新みたいな節もがあるが。

 

 

さておき。

 

自然の動向も気になっている。この前ピンクの絨毯だった田んぼが畝を作って耕されていて、2日前に平らになっていた。そろそろ水が入るのかとそわそわ。帰りにルートを変えてみたら(見たら)、若干池のようになっていた。夜に水を入れた方が蒸発の関係で省エネなのだろうか。というか、なんか遅くないか。

 

仕事もなんとなく遊べていた。人って他責にすると真理的な正しさが存在すると思えるみたい。これって、神様がシステムにすり替わっただけで、仕組みが分からないのに真理だと思える時点で、まごうことなき宗教だと思う。システムは道具であって信じるものでもないような。道具は人間と違ってほとんど完璧に機能するが、不具合があるからといって思考停止になってはいけない。

 

あと、人は自分が自由に発言している、任意的に発話を扱っていると思っている節がありそうだが、それほど自由そうじゃないなという観測。無意識の調整が働いている気がする。たしかに、普通に考えて、相手が知らない言葉を遣っても伝わらない。自由だと意識化されつつ、無意識が調整しているという説はありうる。

 

「時間の終わりまで」という理論物理学者が書いた人類史の中で、進化論の理論では人類が物語を好んだことが説明できないという話があった。進化的に有意な情報を伝達するという機能であれば言葉もっと端的な指示として発展するはずで、迂遠な啓示ではないような、というのは分かる。進化とは無関係な、迷子的な発展という説もあっていい。機能的に脳が発展した副作用みたいな。

 

個人的な感じだと、どうもそうでもなく、形式を指示ではないものにすることでしか伝えられない受け取れない波が人間には備わっているのではという説。芸術が人を慰撫したり昇華したりするのはそういうことで、人類という種にはこういうものが進化上必要だった。

 

そもそも論理的にはできてないし。

 

ユートピア」の話で、知的生物とは規則的に動けるものだという話があった。規則的営みは自然的な営みではないから、そこで分別できるとか。たしかに暦とかタイムテーブルに合わせることができるのは、規則を認識して従えるという知的作用ではある。ただ、ミツバチとか蟻とか結晶も規則的とのこと。そうすると、「知的」の意味が微妙にぼやける。

 

規則にイヤイヤ従うのであれば、自然の規則に従うミツバチと変わらない。もっと能動的に規則に流れるのが人間なのでは。

 

言葉は規則なのか。

 

ある意味変態性なのだが、僕はこうやって公に自分の文章を流しているのに、スキが1つも付かない記事ができると、なにやら「しめしめ」と感じる性癖がある。たぶん誰にも読まれていないということはないだろうし、この感覚何だろうなと常々疑問だった。

 

ところで。最近「Habit」という曲をちょくちょく聞いている。人は分類できるものではないという主題なのだろう、ポップな感じでカテゴライズを批判して、人はそれぞれみたいな。

 

哲学少女曰く、これが人気なのは「共感的な言葉」だからだとのこと。このアーティストの曲は聞かなくなったとか。

 

なるほど。僕は共感的な言葉にそれほど忌避感はない。良いこと言っているなぁ、分かるなぁくらいはある。ただ、美味しいのかというと別の話。共感されたいという意味で綴られる言葉は無味無臭。

 

 

という感じで、「共感的な言葉」の考察。

 

僕は人が共感して欲しいとしている言葉には合わせる質だったが、そういう言葉を扱う人は断捨離してしまった。相手も自分と同じ感じであるべきみたいな話し方をする。こういう人達に異論は通じない。

 

共感も「規則」なんだよなと納得。ここでいう感じは僕の語彙とは随分違う。

感じが言語化された共通項になっていて、この世界での共感はとても簡単。相手の世界観をよそ見しながらうんうん肯けば良いだけ。

 

要は世界観のなんとなくの一致でしかなくて、それ以上の遊びが無い世界。

共感って、相手とし合うものではなくて、あくまで自己の世界。僕があんまり「スキ」を好きくないのはこういうところと考察。共感なんて別にされたくないし、そんなてきとーな世界観で他者を捉えたくないから。

 

誰かと繋がるときに、外付けの規則は不要だしもっと外の他者に承認されるいわれもない。

ここら辺が可視化できるようになったのもスッキリ感。

 

個別の人が棲息している世界って色々ある。言葉を綴るような人は実生活の枠からはみ出しているとか。まぁビジネスでやっている人もいるだろうな。インターネット世界でなるべく共感を得られるように綴るとか。

 

僕の文章的生息地は何処なのかというと、おこがましくもありつつ、詩的なところに近そう。僕が美味しい詩人は自分の中で遊んでいる人達だし、全然共感を求めていない、確立した文章体。小説家にもそういう人種は居る。

 

日記という媒体で書いていて面白いのは、読んでいる人が僕に共感せずにこの文章をとっかかりとして自己を内観する感じ。結果は返ってこないけど別にそれで良い。

 

1日1文だけど、共感では読めないに違いないから歯ごたえがあって読みにくいと思います。読んで居そうな人は把握しているつもり。論理でも読めないと思う。

 

他者の笑顔もとても良いが、もっと内部に響くのも良い。

いやいや、全然読めるものではないですわという感想も嬉しい。(変態)

 

そろそろ創作の壁を越える時期という説。

 

明日はぼっちで動物園に行ってきます。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。