スイッチ

 

 

有給を満喫している1日目。

 

朝はきちんと起きてご飯も食べる。出がけにはガスの元栓も閉めたし、スイッチ式のたこ足配線も切った。はず。

 

ただ、あまりに私生活で、かつなんとかなる領域だとゆったりしてしまって良い塩梅だと思った出発時間が思いの外遅いし、そういえば普通の人の出発時間だということに注視してなかったため、梅田に着いたとき、あと15分くらいしかなかった。地の利を生かして余裕で間に合ったが、内心はスリル満点。割と最終的になんとかなるだろうとしか思っていないから枠内でのスリルなのだが、こういう意識を安心させないように遊ぶ節がある。計算してるわぁ(誰がとは言えないけど)。

 

そうして名古屋駅に到着。思いの外時間がタイトなことに今更気づきながら、本屋さんに寄る。どうしても気になっていた「憲法の土壌を培養する」という本。日本の政治の遷移と憲法学の間を繋げるような話で、やっぱり気になっているだけあった。森鴎外とか夏目漱石の知的階層みたいな話も出てくるし、「政治」の定義が滅茶苦茶シビアで面白い。

 

「一個の全体社会の頂点の意思決定を、自由で独立の主体相互の特別な質を持った厳密な議論によって行い、かつ一義的で明確なその決定を迂回することなく自発的に遂行する」

 

これくらい厳密な定義をしてくれる政治家ってきっといない。政治的な決定を担う機関にかなりの知性を要求しているという意味では政治を考える国民にもそういう土壌があると言う前提があるところがシビア。

 

何かを批判して満足するのではなく、批判の批判も前提とできる器は育てようとしてもできない。日本人は思想とか見解が人格と連動しているように捉えるし。

 

あと、日本の現代史が浅いから目から鱗だったのだが、デモクラシーの語源ってざっくり言えば、国家の構成員でもなく社会の参加者でもない個人を守る政治的な思想。ただ、個人的には、現代日本人が個人であることに耐えられる器を醸成している人物がどれだけ居るのだろうかというのはちょっと疑念。

 

耐えられるような個人が確立しているのが理想的な政治なのかもしれないが、これはユートピア観よりさらに遠い。

 

あくせく知識を収集するところから離れた憲法学はほんとに美味しい。

 

 

そんなこんな移動時間。

 

高速バスの降り際は、いや、歩いた方が早いと思う。どうでも良いが、五月の歩行距離98キロだったらしい(グーグル先生調べ)。6月は100キロに乗せてみたいところ。

 

移動にかかるお金って、距離ではなく時間なんだよな。僕は歩きを至上としているから、あんまり移動にかかるお金を問題としていないのだが、大阪から名古屋に移動するバス時間より、新幹線で愛知の端っこに移動するお金の方がかかる。あるものだけしか問題にしなければここに罪悪感は起こらない。

 

ご当地ご飯を食べることもしないのだが、たまたま空き時間があって、冷やしきしめんをいただいた。美味しいが、消化が悪い。

 

そんなこんな、のんほいパーク。

 

陽キャ学生っぽい集団が最寄駅で集まっていって若干萎えた。何か話しているのだが、音として聞き取れても分からない。そんな話していて楽しい、のだろうな。

 

 

1時間ちょいでは周り切れない敷地。植物ゾーンは癒し。アジサイが元気。どんぐりを転がすピタゴラスイッチみたいな遊具でも遊んでしまう。

 

動物ゾーン。

 

動物園は好きなのだが何か畏れがある。牙を抜かれた野獣って鑑賞対象になっているが、本来は人間って捕食される対象だし。この微妙な境界が楽しい。鑑賞してるという一方通行はなんらかの策があるという規定だが、んなことはない。

 

お風呂読書が別軸になった話もある。

 

西脇順三郎という詩人の集とか、日本における言語学の長老みたい人の本とか。

 

 

ここまで。

 

文字数少なくてすみません(思ってない)。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。