人生劇場の謳歌。学問も横断する。
憲法学の本に、ソシュールの記号論が出てくる。シニフィアンとシニフィエ。たしか憲法9条の解釈で、記号から意味に一気に飛ぶのは粗暴で、その中間の段階があるだろうという話だった。
エリクチュールだっけ(たぶん違う横文字)。言葉そのもので突き詰めていくというのは好み。突き詰めた人の言葉は返って透明。西脇順三郎さんの詩をいくつか読んだのだが、ほんと、透明。何かの詩集のあとがきで、詩とは「もの」であるみたいなことを書いていて、ここでも横断。人は「もの」であって「物」ではない。この話は面白いのでもう少し寝かしつつ。
ビジネスホテルで目が覚まし、朝食バイキング。柴漬けと沢庵はあるのだが、梅干しがない。その現象を伝えると、不満を言っていると評される。これは別に無いからどうとかいう話ではなく、単なる感想でしかない。
この話、ちょっと分からないでもない。否定的な言説(無いとか)って、発言者が否定的評価をしていると捉えられるのがありうる解釈だが、僕が見えている世界は別にそれによって主観的に何かが変わるようなものではないし、他者に変化を求めるものでもない。
だから、否定的言説が否定的評価とイコール(シニフィアンとシニフィエの一致)の人にとっては、なかなか刺激があるのかもしれない。視覚的表現って本来そういうもので、評価が先行している訳でもないような。
気付かれたことによって気付いた僕の発話的ずれ。
なるべく発話しないというのはこういう文脈にも拠っている。一面しか見えないところでそれを描写したところで人は決まらないのに。人の発言はこういう意味で気にしないことにした。これもまた後で。
そうして、豊田市美術館。幾何学的な建物で世界を反射するし池も反射する。なかなか恣意的な美。「機能と構造のポリフォニー」というモダニズムの展示を見てきた。面白い。表現できないと自分の中だけのものだから、書く。
第一次世界大戦によって世界観というか、世界そのものが移り変わっている。部屋の内装とか、装飾品とかファッションも。システマティックの機能を追求して進化できているのであれば、今頃は選択肢が機能一択でデザインの選択はない。抽象的幾何的なデザインで現実を描写できる人の世界観の天才性。あと、家具のシステマティックな変遷も面白い。ただ、最先端の機能性だけでは追いつけないのだろうな。最先端にはあくまで馴染みとの連続がある。
お昼ご飯はカレー屋さんに行った。先人が頼んでいて美味しそうだったから頼んだドライキーマカレーは美味しいのだが、かなり辛い。お風呂読書のときのように毛穴が開いて汗だらだら。なにやらすっきりする。
そうして、紫陽花は明日に繰り越し。雨具合の予報がカンカン照りで、散策するには気温が高すぎた。ついでに運試し。1000円使って次元がと銭形警部が頑張ってくれたが、確変はなかった。「燃えよ斬鉄剣」のシーンが出てきて懐かしくて良き。
甚平とサンダルを購入して、文字通りのモデルハウスに泊っている。展示場を宿泊施設として流用するって面白いコンセプト。ウッドデッキがある宿泊場。化石みたいな家電製品で過ごしている僕としては、近未来みたいな感じ。勝手にお風呂が溜ってくれる。本日は料理長ではなかったが、こんだけ広いシンクでIHコンロ3つあればどれだけ生活的炊事が時短になるか分からない。
家というのも構造と機能の交錯。生活に何があるべきかというのも時代によりけりだし。
解放感で本日の画像は甚平姿。まぁ顔は扇子ですが。
ちょっと自己考察。僕が自分の存在というものをあまり確立できて来なかった原因に、他人からの評価が玉虫色だったからというところがありそう。本日のタイトルは本日評されたこと。縄文人顔だし、これは良い。顔は、何で撮るかとか、どの角度かで全然違う。あくまで感想レベルだが、藤木直人とか亀梨なんとかとかか言われる。どちらかというとカオナシみたいな感じだが。
これは人格的な部分にもあって。誰かに評された人格が自分の人格なのだと合わしている節がある。割と見た目に清潔感があるらしく部屋が綺麗そうとか、きちっとしてそうとか。
でもこういう他人の評価って、結局はその当人基準だから、僕のほんとうとの比較ではない。ある程度は合わせられるけれども、僕は貴方の範疇外でも生きておる、とかなっていた。
一番は言葉と人格が一致しているという世界観に合わせられなかったこと、いやいや、言うほど現実化してないやんとか、当人に言語化できてない人格もあるやんとか。結構こういう部分に惹かれるところがあるかどうかを問題としている節がある。
評されてきた自分の人格にムラがありすぎて、環境から自分が決められない。
この器を持ったら、もっと女遊びしているとかつての友人に評されたこともあったが、これも友人のコンプレックスなのかもしれない。いやこの人、パイロットの人妻だった人を娶った猛者なのだが。
まぁ、僕はこの人格も器もとても謳歌できてきている。
輪廻転生があるしても、この肉体で生きられる世界はきっと何万年後とかになるし。輪廻転生を救いに使わないスタイル。
どうでも良い感想だが、自分の人格の症状に名前が付くと安心できる世界観も良いな。しんどさに名前が付いたところでそれが定型であるとはみなせないのだが。だって、それをどう感じるかなんてその人の人生劇場によりけりなのに、外から決められない。
そんなことより何が匂うかが気になる。
日本語の原点みたいな本を読んでいるのだが、匂うは嗅覚ではなく、嗅覚を比喩とした感じとのこと。僕の語彙でいうところの味覚的世界観。味は世界に影響されない。どれだけ収集したところであくまで個人的な感じ。
夜ごはんはシェフがものすごく美味しい料理をサーヴしてくれた。対象に与えたい、対象を求めたいとなるのが個別的な好意なのだ。という世界観はとてもシンプルな合理性。与えられたから始まっていないのが楽。やきもきされている可能性はあるが。
そうして、思索パート。
この憲法学の本を読んでいて、近代の個人の尊厳の意味がちょっと分かってきた。
そもそも、個人が個人になりえたのは世界が細分化されてきたから。国民が王様を自然現象と同じく捉えていると、人の区分が不明瞭になる。
僕は個人的に、人が固有な存在であることに財産の所有が付着している意味がよく分からなかった。何を持ってなくても自分の人生劇場を過ごしているだけで固有の個人じゃんって。
でも、もっと歴史を遡ったヘーゲルさんが構築した法哲学の語彙としての「占有」の話が出てきて、なるほどなと思った。原初の国家では、国民も国王の所有物であって、人が存在していない・そこから個人を勝ち取る為に、土地ないし物を国家から離れた個人が所有しているという概念が生まれた。
物を持っているから個人だという世界観はここから来ている。納得。
憲法学における自由が、所有権からの類推であるという叙述が全然分からなかったのだが、やっとつながった。
ただ、現代人でもここで留まっているのはどうしたことだろう。
教育の雑さなのか、人が分かりやすいところに留まりたいのか、どちらかは知らない。
なるほど、世界が「物」的に捉えられると自由になったり不自由になったりするのか。
そういうのはどうでも良いとしたほんとの自分を追求すべき。
人に評価されなくなったいまの方が動けるし、評価の枠は馬における人参の比喩みたいでいやいやする。僕は自分のことを飴と鞭がないと動けない獣みたいに捉えておらんし。
資格試験に向けてあくせく客観的な知識を追っていたときより、いま読む方が楽しい。
正解がない世界の方が生きがいがある。
ここでいう楽しいが楽ではないのはそろそろ伝わっておるかしら。
こんなてきとーな世界観で表現物を構築しても良いかなと思うくらいにはゆるゆるしてきた。物書きではなくもの書きになる世界線。
はい、おしまい。
おやすみなさい。
良い楽しさを。