楽と楽しいの違い

 

 

酔っぱらいが家に帰れるのは、そういう運動野が酔いの作用する脳の領域ではないからとのこと。

 

脳の神秘。たしかに、「歩いている」、「歩いた」という状態と結果は言葉として意識できるけども、まさにいま歩くことをずっと意識し続けることは呼吸と同じでとても難しく、ほとんど無意識に丸投げしている。意識していない歩きの人って、ぶわーっと拡がる。大きい駅で目的地に向かって歩いている人達は歩くことを全く意識していない。名古屋駅はほんとにカオスだが、帰り着いた最寄り駅の階段で、三人組が並行に並んで対向者にしか空けないのに若干疲れる。利益が問題にならないところに人の本質が出る。

 

僕の言葉を綴る領域もそうなのかも。脳の中を散歩する領域は、酔いが作用することによってより感度を増す。酔うとよく話すと評されたどうでも良い人達と飲んでいた時代を分析してみる。素面でも酔いでも特に話したいことは無かったのだが、外界に対する注意(人の話を聞いて語彙を合わせるとか、共感してみるとか)に酔いが作用して、自分に向くから話せるようになってのでは。伝達でも指示でもない言葉ばかりが在るため、そういう語彙が乏しい。

 

酔いは悪酔いにならなければ影響しないが宵は影響する。眠くなると頭の中をお散歩できない。人は言葉を遣ってなくても結構饒舌だと思う。

 

楽しんだ最終日。朝ごはんのバイキングタイムを睡眠に充てる。お腹いっぱいで調整。昨日の鶏料理美味しかった。むねと肝のお刺身と、焼き鳥アラカルト。ささみのわさび焼きがしっとりしていた。つくねの温玉ソースは濃厚。冷酒の可(べし)と佐久の花も美味しい。

 

昨日の文字数がやたらと少ないのは、頭の中がふわふわぼーっとしていて散歩ではなく寝転んでいたから。

 

そのあと、コンビニで梅干しおにぎりとポカリで調整ご飯。また海岸沿いの観光地に行く。しばらく行列を眺めつつぼーっとして、海鮮丼をいただく。酢飯になっているのは持ち帰り用に冷やす為とか。合理的だ。

 

大阪名古屋間で最も快適な公共交通機関は、おそらく近鉄特急。高速バスは安いが融通が利かないから予定が決まっている往路では良くても帰りだと縛られる。時間の融通で言えば新幹線が本数多くて便利だが、自由席でも高いし座れない可能性がある。近鉄は全席指定席だから、座れないということはないし、新幹線と高速バスの中間くらいの移動時間になる。

 

どうでも良いが、東京はともかく、大阪駅より名古屋駅の方が人の動きがカオスで苦手かもしれない。京都駅はなんとなく人が少ないイメージ。

 

 

そうして帰ってきて。体はきっと疲れているのだが心が全然疲れてなくて、スムーズに生活に移行された。買ってきた朝採りナスを塩もみしつつ、洗濯機を回して、そのままご飯も作った。メインは豚肉とズッキーニと新玉ねぎともやしの味噌ポン炒め。楽するのは肉体が滅んでからいくらでもできるだろうし(そのときは楽という概念すらなさそうだが)、楽しく生きる可。

 

いつものお風呂読書に、持ち帰った2冊が加わる。

憲法の本と、大岡信の現代詩の解説本。個人的にはやってきたからにはこいつらは近いところにあるとしている。何故って、どちらも「言葉」に焦点があるから。

 

現代詩の解説本から。詩の読み方が学習される。今日読んだのは「母国語」に関する詩。外国に留学? している時は詩を書こうと思えなかったって。なんとなく分かる。外国語って完全に言葉だから、ニュアンスはそぎ落とされる。母国語の言葉の世界では澱(檻)が認識されて、それが詩になるのかな、とか。ただ、この意味で言葉を突き詰めていくのは劇薬めいている。安定した言語という概念で構築された世界から当人として自律している試行は不安定。インストールされた世界観で満足できない人格は、不適合者だったり、精神疾患というレッテルを貼られたりする。まぁ、自分を楽しんでいる人という気はする。自分だけの苦しみを見つけられるのも人生劇場の醍醐味。

 

あと、文字数の区切りとかは僕にはないところだから面白い。ただ、計算してそれを書いているというより、計算に見える自然の運動な感じ。なんだか漫画家を目指す漫画で言うところの計算型と天才型みたい。でも、そういう世界に生きていれば、最終的に自分の表現が解釈の幅を許容するようなものになって一致するような感じもある。綴られる言葉が全部意識的であるというのは素人見解であって、歩くこととか息をすることの方が近そうな。

 

膨大な表現されない言葉が運動しているから深くなる。

字面では読めない濃厚な料理のような。作品に対して当人がそうであるという感想を抱くのも無粋ではあるが、そういう世界が存在しているから表現になっているのは確かで。認識できないものは書けないだろうし。

 

 

憲法の話は、媒体の現象学とも繋がっている。ヘーゲルさんは「法の精神」で「占有」とか「所有」の概念を浮き彫りにしたらしい(読まねば)。個人が国家から独立した存在として意識されるためには、まずもって物が共有ではなく、自己が物を持っているから個人なのだという観念が必要だった。フィクションだけど。だって、物の区分けは国境線と同じで、人間がそういうものだとしているだけ。

 

物を持てるのが個人だという観念は当然に日本の民法にもある。例えば胎児は権利主体になれない(例外あり)し、行為能力がない人は保護者ありきの制限的な所有権しか持ちえない。

 

憲法で、自由権が物権の類推で把握されるべきという話を随分前に読んで引っかかっていたところがやっと繋がってほくほく。自由は物と類似していて、保持できるし行使が任意であるというフィクション的世界観。

 

現実とフィクションに優劣がない立場だからそういう感覚も良いとは思う。なにせ僕は夢も大事にしているし。昨日の夢は「あじさいの里」で語句検索した人がいっぱいここに来場して言葉遣い誤ったかなというやつ。自由とは他者が問題にならない領分である、なるほど。

 

結局のところ、現実に対する練度がある人と関係するのが楽しいのだろうな。

自分の人生劇場における職人ではなくて、他者の劇場も見える人。疲れない。

 

 

あぁ、そうだ。

 

僕があんまり自由に言葉を発さないのは、変な固定観念だが、人に影響を与えて世界線を動かしてしまうから。いや、違うのか、僕の世界線が動くのか。どちらにせよ同じこと。

 

最終的に辻褄が合うという世界観だから、こんな世界に付き合ってくれる人はなかなか居ない。(天気予報も覆すし)

 

今日はここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い睡眠を。