解釈の幅

 

 

昨日の文章について、人に当てられて疲れているのではという指摘。

 

たしかに耐性付いてきたとはいえ、人がカオスの場所に頻繁に行くと不活性になる領域があるのは確か。繊細さん的傾向。単純に人が多いところが苦手というより、何やら当てられる場所というのもある。名古屋駅は相性悪いのかもしれない。名古屋駅を往復しないルートを開拓しよう。京都経由だともっと東に着く高速バスがあったような。

 

あと、個人的に、大阪駅のグランフロントの紀伊国屋書店の場がとても苦手。阪急駅の近くにある紀伊国屋の方が人は多いのに、気分が悪くなる。何を感じているのか分からないが、繊細方向が多角過ぎる。

 

だから定期的に人の手がかかっていない森成分を補給したくなるのか。

 

苦手な人は、違う世界観の話を聞こうともしない人格的傾向。循環がなくて滞ってしまう。

喜々と食べる変人は僕くらいのものだが、聞くこともせず突っぱねてしまうのは振る舞いとして雑だ。

 

当てられているからこういうことが言語化されるのか。本日のお風呂は入浴剤ではなく粗塩にして禊をしたから、そのうち抜けるとは思う。まぁ、良い感じだけ採り入れるというのは難しいよな。感度を高めれば良し悪し問わずに感受される。この性質を麻痺させるつもりはない。

 

さておき。

 

日記的日記。

 

よく寝た。体がお疲れ具合。もっと寝たいとかはなかったが、体の動きがやや鈍い。筋肉痛はやっと収まった。

 

てかてかした空の下、出発。ここで発見。かつてピンクの絨毯だった田んぼの田植えが遅れていた理由。幼稚園生(小学低学年かも)が多いなと思ったら、田んぼに群がっている。僕もそれくらいの頃やったわ。田植えの体験学習。幼稚園児と田植えの取り合わせは成長の予感があって綺麗。スケジュールの調整で遅れていたと想像。

 

子供動きが不規則なのは、無意識のオート状態が学習されていなくて、全霊で意識的に動いているから。こういうわらわら群には当てられない模様。なにやらすっきりする。

 

これから米の成長を観察する田んぼになった。

 

唐突に「香君」の話。農業がメインの文化圏のファンタジーなのだが、ある品種の米のノウハウを国家が独占して配給することで国民の食生活が安定した。この品種は外の作物にとって毒性が強くて、枯らせてしまうから、国民は配給される籾殻に依存するしかないのだが、時代が移り変わって、育てる方法論がオリジナルから効率化に向いたことによって、天敵の虫が繁殖してきてさぁ大変というのが上巻。さっき読み終わった。

 

これって、資本主義における貨幣のメタファーなのではという読み味がした。

資本主義については採り入れ中。お金があればだいたいの欲望が叶うみたいな一般的な観念では何か物足りない。もともとは個人が富むための方法論として生まれたものではなくて、社会全体の富の絶対量が増えることによって、結果的に個人も富むという方法論として考案されたという想像している。だって、最初から独善的な方法論は全体が受け入れないはず。じんわり悪どくやったという説もありうるが、もっと社会全体の思想な気が。

 

「性愛と資本主義」の本で、「サッカーと資本主義」という補論があって面白い。資本主義の思想は終わりを引き延ばすところにあって、サッカーにおけるオフサイドルールもその為だという話。法人(企業)も人間とは独立した生命体みたいなフィクション的な存在だが、構成員が変わったとしても存続する、死を(ある程度)克服した存在だし。会社が倒産しても構成員は死なない。そうとも限らないが。

 

こういう世界に生きている以上、現実が物体的な体が感知する現象に留まっているということは在りえない。世界は恣意的な視覚で構成されている。

 

帰り道、あと2分くらい歩けば着くところで、首筋に痛みを感じる。外界からの侵襲の気配(虫)。首にはかつてスズメバチにさされた痛みの記憶があるため、なかなか敏感。叩き落としてみるのだが、暗くてほんとにそうできたのかが分からない。部屋に着いてスーツを脱いだら痛みの元凶が居た。カナブン。高いところに行きたがる習性でハンガーの取っ手部分まで上がってくる。

 

夜に帰した。

 

 

やれやれ。ここから大変。

 

自己にとって自明であることが、ほんとに自分のものなのかということが気になってくる昨今。個人的に感情としての言語で表現される感じは関係的なものだから、あまりあてにしていない。関係において利がないところで出てくる感情的感じには信ぴょう性がある。

 

利得と損失の観念は行動経済学でげんなりしながら読んでいるが、学問が形成されているということは、統計的に人はそういう世界観をインストールされていることになる。

 

とかいいつつ、統計学は主観的な統計的優位の偏りを排除してなるべく客観であるための学問だったりしてややこしい。

 

要は、利得とか一般論での判断は自分のものではない。

もちろん、自分のものではなくても生々しいのであればそれ良かろう。

 

まぁ、合理性とか論理は外向きの説明だから習得するに越したことはない。

僕の人生劇場は一貫して説明できるようなところを軸としていないから、解釈してくれという感じ。

 

憲法学の本で、「強い個人」という概念が出てきた。自由の為には個人で主張しないといけないという。たしかにもたらされるものとしたら誰か先人とかリーダーの肩に乗ればできるが、自分の自由を求めるためには個人の力が必要。

 

文脈を迷子にして。

 

大岡さんの現代詩の解釈本面白過ぎる。

今日読んだのは、「夜と魚」だったかな。世界の外にぴちぴちしていた。

 

詩的表現について考えていたお弁当時間。

僕は自分を言語で表現できると思っていないものだから、言語で表現されるものがほんとうとは思っていない。

 

ただ、自分がどういう世界で生きているのかという書き取りはここでやっているから、これを詩という媒体に代えても良かろうなと。表現するという芸術化だと敷居が高いけど、単なる書き取りであるというシュールレアリスム的な感覚ならありうる。

 

表現と存在を全然連動していない。

 

 

はいここまで。

 

また明日。

 

おやすみなさい。

 

元気でありますように。