仕様

 

 

なにやらいちいち悪態を吐く人格がおられる。何に反応しているのかと観測すると、集団に当てられた当てつけで、特に個別の誰かではなかった。車ほどは危険がないから歩行って規制があまりないのだよな。

 

ウインカーを出すのは交通違反で当人が捕まるのを避けるためではなく、周りに動きを知らせるというきちんと理屈がある。これと同じように、同期の緩さに内心で悪態を付いている。

 

ここでの悪態人格は、自分がどうのという文脈と、全体の合理性がどうのという文脈がある。悪態のために粗を注視している、という訳でもない。

 

 

内心の反映のように風が荒れ狂う1日。自然には悪態は出てこない。なんか台風めいていてうきうきした。こういうとき思っているのは、何か看板とかが飛ばされてきたらひとたまりもない、自然には勝てないな、ということ。自然には悪意がない。

 

人間には悪態が出てくるのは、自然的な動きを操作できるのだから、もうちょっとあるのではというところなのか。これは反射して自分への悪態でもあるとすると、自己改革のための人格とも言える。現実で相手に表現しない限り存在しているのは内側だけ。外に出ないように制御するくらいはできる。

 

そんなに理に適っていない人格ではないから、駄目だとか何にも思わないし、窘めることもしていない。やりたいように暴れればよかろう。

 

 

自己改革的な感情の挙動として、本日失敗を楽しんでいた。最終的にリカバリーができたというところもあるが、失敗したところで別に大したことはないなという感じ。なんだか自分で失敗を発見したと思って訂正したら、その情報が古くて最初が正しかったという感じで、自分が間違っていないか確認しないと起こらない失敗だったという、勝手に右往左往してしまったというところ。

 

マスクの下でにやにやしていた。

 

ヒューマンエラーは必ず起こるものであって、それが起こることを非難するよりも、再発しないような対策を講じることの方が大事。情報だってずっと保持はできない。

 

 

間違ったり足りなかったりすることは特に問題はないと思う。問題は自分のこういう脆弱性を認められなくなったとき。こうなると世界が閉じてしまう。認めた上で他人に足してもらうというのはありうる対応法。

 

結局、全部自分の話にしてしまうくらいにはまだ余白がある。

そうした方がすっきりする。自分の話だったら対処できるし。

 

 

そういえば、お昼休みに香君の下巻のついでに、久々に啓発本めいた本を買った。「12週間で天才脳を養う」。海外のお医者さんで医療ジャーナリストが書いている。これが「天才脳を養うための12の方法」というタイトルだったら買わない。方法論が知りたいのではなく最新の知見を参考にしたいだけだから。

 

まだ冒頭の30頁くらいだが、著者のスタンスがとても好み。一目惹かれただけある。好きなフレーズは、「恐怖でコントールしようとしてはいけない」。恐怖政治をひかれていた思春期時代を想う。怒りに対する恐怖で行動をコントールするのって、上の立場の人にとってはとても省エネなのだろうな。ある意味下の人も怒られないように動けば良いという思考停止で良いから楽ではありそう。

 

これは社会全体にも言えること。恐怖を煽って行動を制御する政策の当否を暗に言っているような。

 

あとは、人にはそれぞれ特性があるから、誰かにとって合う方法が、貴方にとって合うかは分からないときちんと書いているし、分かっていないことは正直に分かっていないとしている。天才脳になりたい正解を需要する読者にとっては不満だろうが、ほんとにそんな方法論があれば皆天才になっているのはふつーに考えれば分かるはず。

 

目次を眺める限り、書かれている脳を活性化する方法論は読む前にいくつか実践している。歩くこととか、読書は、なかったか。この職場に入ってから歩くことが増えて、活性化している気がする。あと、毎日書くことも含まれていると思うが、これは一般論で実践できることではない。きっと皆そんな暇はない。noteでフォローさせていただいている方の執筆頻度が高くなっている気がするが、気のせいかもしれない。

 

僕が脳の活性化を需要しているのは、社会的な成功とか誰かより賢くなるとかではなく、単に人生劇場の充実の為。変な表現だが、記憶を置いてけぼりにしたくないから。

 

自分の意識上の情景が記憶という名前を付けられるのは、それが「いま」の自分と断絶した意識されるから。これは社会時間としての過去の概念とは別物で、もっと個人的な領域。

 

思い出の概念はいまの体感との断絶か。

 

目次の中に、経年で脳(記憶力)が劣化するという俗説を覆すみたいな話があり、とても楽しみ。個人的な劇場として、10代が一番忘れ物していたし、20代はいっぱい落としていたが、今はほぼないしあってもすぐ再点検できるから、一般論は何を言っているのだと思っていた部分。

 

別に生来でも経年でもないやん。

 

個人的には、真面目に従えない天邪鬼人格が作用しているとみている。

壊してきたからいまを楽しめている。

 

共通感覚論でも記憶力の話が出てきた。当時の現代人に欠如している能力がこれだって。僕も記憶力はないと思う。物としては自分に残っていないし、物として再現できる機能はコンピューターがやってくれるし。

 

物としての記憶は財産との類似で、おそらくアイデンティティには寄与するはず。記録もそうか。記録能力でも人は人類が作った装置(写真とか動画とか)には勝てない。それをいっぱい持っていることで自己のアイデンティティにしている節。

 

僕はそういうのは駄目だ。物的な積み重ねをアイデンティティとはできない。

なんなら、思考する意識が自分ともできない。考える葦もちと違う。

 

別に自分が自分であることなぞどうでも良い。

他者に対して証明する必要がないという立場。かといって唯我独尊でもないという微妙な感じ。

 

物的には再現できなくても、感じとしてのものは残っているというのが人間の妙味。正しさではなく、そういう感じが人の方向性を決めている。僕が人の怒りに敏感なのは母親の恐怖政治の名残みたいなものだし、母親となるべく接したくない感じも仕方がない。これでも接するのは外付けの儒教的正しさ。

 

で、もっと実践的な情報としての記録ないし記憶を考えてみても、物的に捉えるのであれば未來に向けて加工するのが難しい。もの的に捉えるのであれば良い感じの世界線に勝手に動くみたい。

 

どういう人生が良いのかはライフスタイルによりけり。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

笑顔でいられますように。