どちらの言い分も説得力があるとき、選ぶのは価値判断なのか感性なのか。
難しい。情報が足りない。
本日は久々にアラームが鳴るまで寝ることにした。色々夢を見たのだが、最後が仕事のシーンだったというなんともよろしくない目覚め。いや、別に特に囚われている訳でもないのだが、若干ある意味お祭り状態に当てられている節はある。
1日の終わりのここで何を書くかみたいな想起が全くなかったのは、余裕がないというより勝手に汲み上がるだろうなという安定感。ネタがなくなることがないのは、終わるまで終わらない世界で生きているから。
そういえば昨日の日記を読み返して、何も語っていないと想った。何か(もの)は書いているのだが、何物も書いていない。料理パートは現実のレシピっぽいが、分量を厳密に書いていない(というか書けない)から、再現できないという意味で、物ではない。
現物的にもここの僕で生きてええんやでとは思っているが、だからと言って特にルールとか合理性があるような感じではない。利得と損失の天秤も時系列や感情によって変遷する絶対的指標では在りえないし、安定も不安定も特に意味がない。
天才脳の本はまだ本編まで進んでいないのだが、美学の天才の概念を持ってくると、脳の活性の極致には、「占有しない」という感じがありそう。個人の尊重とは彼岸の観念。だから天才性と人格が直結している人物は人格が社会的に破綻しているが、世界の発展に寄与するという。
この本はあくまで「天才脳」を養う本であって、脳の回復力を発展させる方法論らしい。困難に遭っても楽観でいられる、もしくはすぐ戻せるとか。ここで言う天才脳は僕が秘して人生劇場の方針としている「賢くなる」ことと近い。脳の活性化によっておそらく記憶力の増強されるのだろうがこれは福産物でしかなくて、本質は自他(世界)に対して寛容になること。
寛容は損なわれても赦すことみたいなニュアンスだが、そうではなくて、階層が違う存在のことを慮るというか、意識できること。中庸よりも難しいかもしれない。だったら私に損なわれてくれても良いでしょうという次元には付き合わないようにすること。
あと情報に対する寛容も難しい。自分が正しいと行動理念としてきたことが覆ったときアイデンティティを保てるか。拒絶してしまう脳は不活性。もちろん別にそれで良い。
あと、現代詩を読んでいて思うのが、当人において活性化した脳は透明になっているのではないかというところ。ちょっと後にして。
朝の20分程のまったり時間でPDF記事を読む。本日は憲法上の勤労の義務について。現実的な意味で勤労が義務なのは雇用契約を締結することによって、勤労の対価としての賃金を得るという双方向のセットだが、もっと上の次元の憲法が勤労を義務としているのかという話。憲法学、行政学、社会保障学の学者の説がそれぞれ紹介される。
憲法が謳っているのは、精神論であって法的拘束力はないあくまで道徳的な理念であるという説がしっくりくるのだが、国民には一般的に勤労の義務があり、生活保護法の給付要件にも関わっているというのも分かる。後者だと憲法が設定している勤労の義務を解除するベーシックインカムが憲法違反になりうるとか。
僕は学者ではないから好きなことを宣うが、憲法が縛るのはあくまで国家であって国民ではないから、あくまで国家の構造が存続するためのものだと思う。納税の義務と同じ。個々の国民の視座からすれば一方的に課されているものになるが、厳密に言えば社会契約の擬制が媒介されていて、人権の尊重とセット、でもない。
社会科のお勉強で、憲法の三本柱を学ぶ。「基本的人権の尊重」、「平和主義」、「三権分立」。でもこれって、かなりぼやかされている。わざとかよっていうくらい。憲法の本質は国家に毀損されないように個人の尊厳を確保することにある。基本的人権の尊重って言われてもそんなの読めない。平和主義も三権分立も国家機関の恣意によって個人が損なわれることがないようにするという国家の義務を規定している訳で。
お役所仕事に融通が利かないのは、融通したことによって弊害が起こった歴史からの教訓なのだと思われる。気分とか従順な人だからでやっていては公平が保てない。会社と同じ。
さて。
本日の現代詩。
「時代によって感受性は運命付けられる」というフレーズにガツン。
これが書かれたのは戦後の辺りらしい。目まぐるしさで言えばこの時代も負けてない。僕は山奥の昭和の価値観に生まれて、今や5G時代。感受性という運命も選択できるようになっている。物的なのかもの的なのか。地元の大学に行ってそのまま就職して子を成して継承することも在りうる世界線だったのだよなぁと想ったのが2年前くらいに行った岡山の公園を歩いているとき。
1世代生まれるのが早かったら、僕も父親みたいな一生を過ごしていたのだろうなって。
たぶんPTA会長とかもやっていた。
こんなの大げさ過ぎるという評価はありうる。
僕がそう感じているだけではあるのだが、天才でない人にとっては感受性の展開は事象がないといけない。感受性は生来のものではない。鍛えられるし変更される。かつての幼少期に虫に対して何も嫌悪がなかったのにいまでは触れないとか。
ここで「共通感覚論」がやってくる。
共通感覚が時代によるのだろうなというのがアリストテレスさんの言で分かる。アリストテレスさんも詩人だ。共通感覚で時間を捉えると、未來が「期待」で、いまが「感覚」、過去は「記憶」になる。この観念が自明なものとしてインストールされている人はいまでも多数派を占めているはず。
ただ、これって科学的に証明されている区分けではない。
にもかかわらず、自分としてこれを区分けできる人格って不思議。脳の活性はこの不思議さに気付けることでもありそう。
賢者に聞いたとしても回答が返ってくることはきっとない。
ともあれ、これでも僕は日々をゆるゆると生きております。
人の言葉は参考とか影響とか存在になりえても、確証にはならない。これを言ったら悲しい顔をされたのだが、それが嘘だと思っている訳でもなく。
なんだか頭の中が賑やかになってきて、一義的な言葉が綴れなくなってきた。
僕の言葉は存在がきちんと乗っているのかは自明ではない。
存在として書いてないからなのだが、翻すと、これこそが存在ともなりえるし、現物とも実は相違ないような気がしないでもなく。
そういえば悪態を吐く人格はおとなしくなっている。
どれかだけ書くというのも良いのか。
呟き場は喧噪ちっくで苦手。でも食わず嫌いはいくない。いや、一時期やってファボに辟易したのだっけ。いやいや、短歌とか詩とか自動的に書き取る場、効用が分からん。
やっぱりカオスになってきたからここまで。
おしまい。
おやすみなさい。
良い感受性を。