遊び足りない

 

 

カワウソカフェがあったら行きたいな。五月蠅そうだけど。

YouTubeでコタローとハナの動画を1本観てから日記を綴り出す(もしくはもち猫、あるいは食パンのような柴犬さん)。

 

土日に作業のお仕事するのは良いが、デメリットとしては髪を切る暇がない。月1回、じんわりツーブロックにしてもらっているのだが、ちょうどそろそろもっさりしているのを失念していた。毎月1ヶ月に増える毛量ではないですねと弄られながらゲーム談義をしながら刈られる。

 

あと、仕事日は弁当という生活用のご飯で食費が安く済むから良いのだが、生活とは別の美味しいご飯を食べられないこと。基本的に金土のどちらか(いずれも)スーパーでお刺身を買って食べている。今週は次の日のお弁当のためにそうはいかないのだが、生活から離れたいつものお弁当では作らない料理を作る衝動が沸く。

 

唐揚げ用の鶏モモ肉を買ってきてフォークで穴を空け、塩コショウ、醤油、にんにく、しょうがを揉み込んで下味をつける。細切りピーマンを胡麻油ひいて鶏ガラ顆粒で炒めたあとに、肉に片栗粉をまぶし、米油を薄めに引いて焼き色を付けて、油を捨てて水をいれてアルミホイルを被せて弱火で火を通す(その間に諸々の生活作業をする)。火が通ったら肉は皿に上げ、蒸し汁にもやしとピーマンを投入し、さらにやさしいお酢、ポッカレモン、砂糖を追加。水溶き片栗粉で甘酢あんかけにして、肉にかける。

 

ポッカレモンの酸っぱさとちょっと入れただけのにんにくチューブが良い味を出している。

そしてもも肉はお箸でほぐせるほど柔らかい。そんなに時間をかけた訳でもない(待ち時間で他のことできるし)のだが、まさに生活用ではない美味しい料理になった。

 

生活用でも美味しいに越したことはないが、生活の概念だと料理だけにかまける訳にはいかないから、お惣菜を買うとかになる。お惣菜も美味しいと思うのだが、作り手の顔が見えないし作ってからの時間経過によってどうしても劣化している。たまには良いと思うが、いつもでない。あくまで個人的な見解。

 

 

さておき。

 

やはり昨日より随分と早く作業できるようになっていた。平日に作業をしていた人が、「スピード感がない」と言っていたが、そんなことは全くない。読み込み中に準備するとかExcelの挙動を学習してなるべく手順を減らすとか、そぎ落とす余地は多々あるから時間の経過が遅いとか意識している暇がない。ちょっとした個人的大発見はtabキーで表の行の最後まで飛べること。かなりの省略になった。ということは表の最初に戻るショートカットもあるはずだが、そこまでは発見できず。最後のセルまで飛べるのも、alt+tabで画面を飛ばすのを押し間違えて変な挙動しているなというをたまたま見つけただけだし。

 

すんげぇ早い人が居て、何故だろうと思ったが、おそらく左利きなことが関係しているのではという推測。コピペと画面遷移に使うのが左手だし。ただ、左利きなだけでそんなに早いのかというと、そんなこともないような。

 

頭の集中はまだまだ大丈夫そうだったがあまりに日常使っていない左手の小指が最後らへん熱(痛み)を帯びてくるし、肩もがちがちになってきて、自分の体思うように挙動されなくなってきて作業効率ががくんと落ちた。体の限界速度でやるようなことではないのだが、手を抜くと時間が遅くなるし。

 

そうして、もうこの作業、今日で終わりだから、この作業のノウハウ自体は活用できる場がない、なんてことはない。経験則を事実として捉えれば同じ作業がない以上、使えないものだが、抽象的に捉えれば、ミスをすると早くしようとしてもできないから、自分の体はきちんと制御できる範囲で動かしつつ速度を上げていく必要がある、という教訓が得られる。急いでいる気分だけでは急げない。

 

何事も抽象を抽出しようとすればいくらでもありそうだが、実体的に考えればそれが起こらないことが多いから、時間だけが過ぎたなとなる。

 

まぁこんなのは僕が低すっぺくだから(卑下ではなく、感想)で、あんまり自意識を挙動の齟齬とか意識されないのだろうな。もしくは齟齬が無いところに居られるように調整するのか。

 

2回前の日記で、面積の話を書いたが、1という長さの正方形の面積が1のままであるって、何か哲学的でないか。お風呂に入っていてふと思った。それでも現実世界における測量が問題ないということは、1は面積というより1つの単位なのだろうなって。

 

やれやれ。

 

お昼休み。もう夏だわーという日差しの下、スマホの画像保存アプリが1年前の今週の記録を見ましょうってポップアップしてくる。見ると、岡山の森の中だった。まだ1年前なのか。閉鎖された(でも通行禁止にはなっていない)、観光地的な山に迷い込んだのだった。黄色いテープが張ってあったり、ウォーキングコースで蜘蛛の巣が張っていたり。そのときの日記もきっと残っているよな。

 

時間が濃くなって距離感が曖昧になっている。2カ月が3年みたいな。

時間が濃いのは、結局のところ無意識に譲らないで意識している時間が多いからだと思う。時間が経ったという感覚は意識と次の意識の間が長くなればなるほどワープみたいになるが、そのワープの指標は社会時間における暦になるから、それほどワープはされない(できない)。

 

僕の世界線と近いところで過ごせる人は、きっとこの感覚が分かるはず。

 

 

ちょっとメタへ。

文章という作品において、メタ的な叙述は何か礼儀違反な気がする。これと同列な感覚として、何か世界に対して遠慮がある自分が在るのに最近気づいた。別に天才である訳でもないし、思慮深い訳でもないはずだが、何か当たり障りのないところに留まろうとする感じ。

 

最近は突き抜けている感じがあって、とても解放感がある。

変な話、森の入り口で誰にも分かる(と勝手に思っている)ところで足踏みするのは辞めて、もっと奥で思索上の迷子になっても良いのだろうなと。

 

それでも読む人は読んでくれるだろうし(昨日の日記にスターが付くとは)、文章としてなりたないようなことは書けないし。

 

あぁそうか、スキではないけど読むというのは、近いのか。

 

もっと早口になります。(知らんけど)

 

戻して。

 

吉本隆明さんのカフカ論で、「法的な言葉」は人を遠ざけるというのがあった。カフカさんは「変身」しか、いや「審判」も齧った気がする。税務関係の公務員だったらしい。法としての語彙は、人間を一般化させるものだから、たしかにそれを語れば語るほど個人からは乖離する。

 

まぁ学問自体がそもそもそういうものであって、統計学の本もそういうこと書いていた。あんまり統計学的見解の語彙を持ちだすと場が白けますよ、みたいな。

 

でも、学問してない一般の人も自分の経験則の中で人を一般化するのは凄いよな。習性なのか、生きる術なのか。学問は世界の見通しを拡げるために行われるが、個人の一般化は世界を狭めて省エネするためにありそう。

 

学問って実は喜劇的なものなのかも。

 

「香君」は何やらメタ的で面白い。専門的な知識がある人の意見には安心があるって、文脈上何か違和感がある。暗喩的世界観。

 

暗喩と言えば、現代詩。

静止画みたいな言葉を使う人が多い。詩って、公的な構文をずらす試みなのかな。

普通は組み合わせてはいけない言葉が繋がっている。

 

最後。

 

人間という世界観において、どういう視点が人間的か。

科学的な視点も面白いし、日常の生活感も良いのだが、僕としては芸術的な世界観が最も人間的な気がする。生存において無駄なところで遊べるところ。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

よい遊びを。