梅雨に入った感じもないのにもう明けるのだとか。
世界が高気圧を求めているのだろうか。
皆さん、熱中症に気を付けて下さいな。
お弁当画像は、なんとなくお裾分け。
さておき。
そろそろ選挙だから、それぞれの政党のマニュフェストを調べてまとめて考察してみるみたいなことをふと思いついたが、なにかに引っかかりそうだから止める。素直なのが良いが、素直を許容するような土壌が世の中にきっとない。
僕はたぶんリベラル派だが、保守を踏まえてないリベラルはきっと、続かない。
神話が受け入れられるのが最低限の直感に反するところなのだから、完全に反したものは逆張りでしかなく。
お仕事は、気付いたら12連勤が終わった。
労働基準法的に大丈夫かという感じだが、何かやりくりするのだろう。
まぁ、余力がなければ日記は書けないので、まだいけそう。
これをここからどう扱うかという指針をどうするかが問題。
お仕事終わりに、美味しいフランス料理を食べてきた。なんというか、シェフに愛が在る。凄く場を把握しているというか、締めるところは締めているというか。撮るより味わうのが大事だから撮ってないが、デザイン性も美味しい。
場の相性としては、僕も通えるところなのだが、食の楽しみの軸が少しずれているから1人では行かないとは思う。
やれやれ。
うーん、どっちが先だろう。大まかなテーマが2つある。
てきとーに書くか。
本日も先生と新人さんのばちばちしたやり取りを観測していた。
新人さんの世界はあくまで一人称軸で、先生の軸は三人称くらいな感じ。先生は雑談でよく一人称で話しているのだが、これは結局のところ、場を和ます目的を持った仕事上の発話であって、仕事をしている軸の人格の話ではない。
仕事軸の人格はもっと目的に適うように運動すべきというところにあって、時々出てくる発言でそういうのは読める。素朴な人格とは別の軸で動くのが働くということ。
人格と仕事上の機能が連動するというのは、なんとも人間味があることだし、人格が仕事に影響するのは当然だが、ほんとに相手が人格を見ているのかというと、ちょっと違うと思う。人格として言語評価できるような確固とした物として人は人を捉えていないよなぁって。
お洒落な先輩と先生のやり取りも結構ばちばちで、先生がばちばちになるのは、仕事の解決の上で、本当にそれが必要なのかというところをちゃんと見ているのかどうかによりそう。
仕事においては機能になることが至上で、そこで人格としても認めらるって、なかなかの贅沢。クリエーターとかの次元だったら連動すると思うが、人格と機嫌はべつのもの。
こういうところでうふと思いつく。存在の相性。
素朴な次元でも、人はきっと機能的な存在で在りたい。これを役割としての言葉が後押しする。僕はちゃらんぽらんだが、きっと機能的な存在にはなれる、なってきた。
機能であることが自分が世界で存在して良い理由になるというのは、ある意味では簡便で、ある意味ではディストピア(ユートピア)。
誰か特定の人に名前で呼ばれることも、一種の機能的な存在論。
僕の素朴はまじでやべー奴。化石のような家電に囲まれて、本にも囲まれて、一般論としての清潔な生活をしていない。まぁGがやってこないのは、ナマモノはきちんと片付けているからだろう。シンクには洗い物が無いように保っている。
存在の相性は、嗜好の同期ではない。
この辺りから、潜ってくる。
存在の相性は、自分の人格にとっても然りなのだろうな。
個人的な感覚として、人格は統一化できるものではないと思っていて、これって他の人もどうだろうなという観測がある。だから、他人の矛盾は気にならない。指摘するまでもない。
自分の本当の存在にとって楽しいことを気付けないまま一生過ごす人は多そう。
ここから、存在論。
僕は自分の存在は、何か成したとか、どう在るべき自分みたいなところに置いていないから、影響を受ける自分を是とする。ただ、影響を受けない自分であることがふつうのおとなのアイデンティティぽい感じはある。
行動を変えられられないのは、人格が確立しているからという観念は僕にはあんまりないのだが、アイデンティティの捉え方としてはありうる。ただ、この人格が他人の行動を変えようとするのは自己矛盾だと思う。そういう人は観測としては楽しいが、一緒には居られない。
自身を考えたとき、行動の変化としては影響されるのだが、これって自分のことを結局どれだけ変更されたとしても揺るがない存在としているからなのだろうな。
自分のアイデンティティを非言語領域に置けば、どれだけ動いたとしても自分のまま。
はい、ここまで。
右ひざに置かれた頭の存在感。
おやすみなさい。
良い夢を。