閉じたり開いたり

 

 

前残業で早めに出たのになかなかの熱気。これはお弁当を窮屈な休憩室で食べるしかないと思ったのだが、昼までにオフィスで冷やされた体が外気を求めてくる。むんむんするが、風が強いからなんとかなった。白いカフェオレで一服。

 

仕事自体は忙しいような忙しくないような感じだが、やたらとエネルギーが消費されている感。相手の人としての存在感をもっと薄めないといけない気がする。進んで、人の存在を抽象化しないといけない場で働いていて良いのかという疑問も。

 

こういう意味での「自分、大丈夫か」はいずれどこかにたどり着くからそのままにしておいて良い。僕も転職活動かぁ。外的に特に何も無いから派遣から入るしかないのだが、まぁある意味何処でも生きていけるのだろうな。

 

そうそう、昼休みに青空文庫で芥川さんの「羅生門」を読み返した。昨日通話していて、「下人の面皰(にきび)は良心のようなもののメタファーなのでは」という解釈を院で披露したという話を聞いて、その視点で読むのも面白そうだなと。たしかに、冒頭から下人のキャラクターを示す描写として頬の髭の下に面皰があるし、ずっと触っている。そして、老婆の服を強奪する前には手を放す。この視点だと作中世界の下では良心めいたものは「膿」のような存在とも読める。面白い視点。

 

そういった、メタファーが入り組んでいる作品だとしてみると、ただの風景描写である「雨」も外との隔絶に見えてくるし、個人的に気になったのが、梯子の上と下の世界は別なのではという感じ。物語が唐突に飛ぶ。死者の世界と生者の世界というより、梯子の上は人でないものが住む「地獄」みたいなところで、その世界に当てられた下人は良心を手放して人ではなくなったみたいな。

 

何気ない歴史風景みたいな物語なのに、解釈が諸々出てくるのは、作者がそこまで計算しているというより、開いているような。髪を一本ずつ抜くことも描写通りには読めなくなってくる。

 

あと、さっそく「それから」も買ってきた。冒頭から格調高い綺麗な文体。おそらく最初辺りは読んだことがあるのだが、格調高さに挫折したのだと思われる。読んでないところまでくれば感触で分かるはず。「行人」と「硝子戸の中」は読んだ。あと「こころ」。読める人と読めない人が居るのは、芥川さんの物語と違って、解釈が社会性みたいなことに絞られるからなのかな。

 

こんなに美味しい文体ばかり食べていると、グルメにならないかどうか一瞬心配になったが、自分にとって美味しければなんでも食べるから大丈夫。

 

 

帰り路で、母親に生存報告の電話をした。

 

内職を辞めて、今はポスティングをしているらしい。陽の者というか外面の良さは相変わらずだなと思ったのが、チラシを入れる対象の家人が居たら声をかけているらしい。「チラシ入れされてもらって大丈夫ですかー」みたいな。なかなか脳に良いことをしておる。歩きまわっていると車で遠いと思っていた距離が近くなるというのは、まさに頭の身の丈に調整する運動めいているし、社会との繋がりは認知機能の低下を予防できるのだとか。

 

話していても若干すっきりしていそうだった。

 

ただ、この相手の事情を加味できる性質がなんで夫である父親に発揮されなかったのだろうというところに一種の拒絶感があるのだろうな。この話は省略。

 

バツイチの従兄が、婚活アプリ経由の彼女を作ったらしいとの報告。あんたはどうなんだと聞かれたが、話が長くなりそうだから省略した。どうでも良いが、最初、SNSのことを「出会い系」と言っていて、言葉のチョイスよと思った次第。「パパ活」の語用にげんなりしてそうなお友達と同じような気分だと想像。

 

その言葉が外から聞かれたときにどんな印象になるのかというところに無防備というか無頓着なのかな。僕も大昔、汚職事件をお食事券という音として認識していたし、ざいけーほうてーしゅぎがなんとなくカッコイイなとか思っていたし。

 

まぁ、今も語感で話すことはある。

語義より語感でしか聞いていない人は多いし。

 

個人的にマッチングの手段をインターネット世界に拡げるのは良いと思っている。

言葉は装えるが、それでいえば現実的人格だって装えるから程度問題。証拠という意味では現実の関係に軍配が上がりそうだが、人は証拠で判断する存在でもないような。発話ベタでも書き言葉に馴れている人も居るだろうし、無意識レーダーだと、やり取りとしての言葉は発話でも書き言葉でも装えるが、その人が書いた自由な文章は偽れないという感じ。

 

 

文章ってその人にとって世界がどう読み取れるかの鏡であって、関係に対する反応ではないから、どういう意図があったとしても本質が見える。僕の文章が散策であるのと同じく。

 

そういえば、仕事の機能的な代替的な人格について思索していて、先生という職業って過酷というか、人格と連動せざるを得ないよなと。これは母親が養護教諭をしていたからかと思ったが、比重は「砂の女」の主人公の方が重い。あとはシュールレアリスムとか資本主義もブレンド

 

教職を取っている人という意味では代替的だが、ある特定の学校における社会科とかになると、なかなか代わりが居なくなってくる。臨時だったら教頭先生がやるのだろうが、教頭先生ももとの教科でないと無理だろうし、教頭先生のお仕事もあるだろうし、学校って法人として成り立っていないのではないかって。その為に教育課程を均一化する学習指導要領があるのか。でも、教育って人格の承継みたいな部分もあって、システム化できるものなのだろうか。ちなみ僕にとって、こういう意味で見習いたい先生は居なかった。あんまり人としては捉えてはいけない存在という規範があったのかどうかは知らない。

 

あえて言えば、仕事場の先生だが、これはある程度対等な立場になったからそう想えるのかも。

 

現代日本人の知性の水準というがまぁまぁ気になる。

日本人は夫婦別姓とか同性婚を議論できる段階ではない、まずはマイナンバーだっていう垂れ流しを見かける。個人的にマイナンバー制度って、受け入れるかどうかがまずあって、その先はこれを決めてからというところだと思っているのだが、受け入れるかどうかは議論でなんとかなるのかな。

 

そもそも感覚で議論しているところで、議論によって感覚を納得させるかどうかなのか。

 

 

小難しくなってくるから省略。

議論的納得より保証を重視してそう。もしくは自分の認知との一致。

 

 

もっと面白い話へ。

 

 

文学理論の「テクスト論」が楽しい。提唱者はテクストとは認識できないものだとしていて、この話は僕の素朴とすげー親和性がある。

 

テキストに書かれた言葉から離れて別のことを想うことがまさにテクストを読んでいるとうのは、文学的は異端だと思うのだが、文の読み手が人である以上、必然的にそうなる。

 

面皰の例でいうと、言葉そのものの意味を手放してしまうことがほんとうの読むこと。

証拠は判然としなくても解釈がそれを支持する。

 

物語の筋は当然として、そうではない読み手側の感じがテクスト。

 

これってもっと拡げて、人を読むとか、世界とか、なんなら自分自体の解釈でも同じだよな。

学問でも良い。

 

要は、閉じたものとして読むのがテキストで、テクストは閉じた世界をはみ出してしまう。

 

はい、ここまで。

 

おしまい。

 

良い遊びを。

 

おやすみなさい。