捨てるものと拾うもの

 

 

怒涛のお風呂読書のあと目を瞑ってシャワーと言葉の流砂に浸る。

言葉の方が水よりも個体状。

 

 

残業でも日々遊んでいる。返ってから一回だけアクションのアプリもする。ログインボーナスとかないから、稼働しないとレベルアップしない。緊急回避にも馴れてきた。

 

いったん時間を巻き戻して。

 

なかなかの汗だく出勤。でも、汗だくで歩く速度をセーブするのも何か違うのかもしれない。「天才脳」曰く、普段の歩行速度が速いほど老化が遅くなるのだとか。移動の歩行はなるべく早く、散歩の歩きはとてとてと。

 

仕事は、まだ昨日の感覚が残っていて、ちょっと疲れるし、眠い。同じことを聞いてくるなぁとか素朴な感覚を持ってきてはいけない。あと、先生の当たりの強さが拡がっているといいうか、僕が感知できる範囲が拡がったというか。新人さんはもちろんだが、お洒落な先輩と同期にもやや強い。これってたぶん、仕事としての成果と一致していないところにある。こういう上司って個人的には良い。たとえ内心僕のことが嫌いだったとしても、きちんと仕事ができれば当たりは柔らかいという意味。

 

憲法学専攻の院を出ているアカデミックな土壌がある人だから個人的には馴染む。相手の事情としての感情論も理解はしつつ、効率性とか実践的な部分に重きを置くべきという感覚も、仕事ってそういうもんだよなと思える。まぁ働かされているという感覚の人では馴染まないのだろうな。

 

お昼休み。暑いのだが、オフィスが冷えるから外が恋しくなる。人間は生物としては恒温動物の分類だが、体感的には変温動物。「結局のところ、何か語ることができることは何も起こらなかった」という冒頭文を想い付いた。ここから始まる物語はあるのだろうか。この文章みたいな小説は成り立つのかどうか。

 

帰宅。母親への生存報告兼お米の催促を先延ばしたせいで、米2キロを買ってビジネスバッグに詰めて反対側の手にはビール6缶パックとアイスコーヒーと草(ベビーリーフミックス)ときのこ類。汗だく帰宅。

 

やっと冒頭の時間と一致。アプリゲームをしながら洗濯機を回し、きのこ3種に四つ葉バターをのっけてレンチン。味付けはオリーブオイル、白だしお酢、ゆかり(梅入り)。思いつくままだが、なんとなくバランスは取れている。最近きのこ不足だったこともあり、美味。

 

洗濯物を干しながらアイロンを温めつつ、ここからは通常営業。

こういうことでは疲れない。だって、生活はやらされているタスクではないから。

 

僕の原初であり唯一の生れ落ちた家族は、生活を随分としんどそうにやっていた。そのしんどさを家族のヒエラルキーの弱い部分に巻き散らかすって何のための生活なのだと思う。もちろん今となってはの話。僕は姉にはストレス解消の的にされ、妹には馬鹿にされという感じだったのだが、ここは分からなくもないし、特に恨みつらみもない。同じ世界線で生きていなかったというだけのこと。

 

母親が、生活がしんどかった、うちにはお金がないって言えば良かったとか当時の辛かったことを暴露するのだが、いや、家計の財布を握っていたのは貴方よねとしか思わず、その点について感謝が起こらない薄情者。突き放してくれれば、それを前提として動ける訳だし、これって他人に対する投資みたいな観念よなって。

 

まぁ良い。もともと家庭内離島みたいなところで生きてきて、家族に対する期待もないから恋人から家族になりうる人みたいなところでパートナーを選んでいなかった。

 

まずもって家族観に理想がない人でないといけないはずだが、誰かと家族になりたい人にはきっと理想像があるという矛盾。

 

別にここに対して殺伐はなく、さっぱりしているので大丈夫。

僕にとって最初の配偶者は最後の配偶者でもあるだろうなというだけ。パートナーは誰かと比較するものではない(パートナーの中の時系列を比較するのはあり)。

 

やれやれ。

 

本の話。

 

「文学理論」がテクストから「読むこと」の章に移った。読むことは「出逢い」であるというフレーズは、まさに読む人である僕の専門領域。読むことは景色を見るように通り過ぎる事物ではなく、自分を動くこと。

 

人の始まりは「驚き」にあるというのも面白い。驚きの情感には対義語がないとかなんとか。

たしかに、「感動」という言葉もあるように、ほんとうの読みものは動きの中にある。読むは多義語だから、自分の世界の中で驚きなく対象を捉えることも然りだが、僕はそういう世界に留まる自己を自分とはみなせないような感じ。

 

そういえば、ちょっと俗っぽい話があった。

 

青空文庫の「羅生門」の文字数が読める時間で換算されていること。19分とのことだが、人の平均読書速度って何をもって算出しているのだろう。平均歩行速度が時速4キロみたいな統計的な観測なのだとしても歩行速度はGPSとかで測れても、読書速度はなんだろう。

 

ここから、悪い生活習慣をしていると死亡リスクが何パーセント増えるという話も眉唾になってくるよなって。西洋医学って部分的に悪いところがあるっていう視点だから、統計的に捉えるときにも、その生活傾向があるという部分しか見てなさそう。このリスクが同じ生活習慣の人が100人いたら41人早死にするという測り方だったとしたら、全く同じ生活習慣なんてありえないし、そもそも体の性質は1人1人違うし、天気予報くらいな信ぴょう性しかないような。

 

喫煙傾向があって自炊して草ばっかり食べている人の死亡リスクは測ってないよなとか。

 

 

ともあれ。

 

どうでも良い話だが、ふと、僕の文章、一元化しようかなと思った。

SNSに居たところで場に馴染んでないし、wordpressで作っている場はあるし。

 

インターネット世界に居なくなる訳でもなし、存在として認知している人はきっと読みに来てくれるだろうし。もちろん、スキとかコメント欄はない。何かコメントしたいことがあれば、自分の場に流せば良い。縁があれば読むことになる。

 

 

人生とは、どれだけ驚けるか。

 

 

はい。

 

では、おやすみなさい。

 

さよならの人も居るかもしれないが、それも縁。

 

良い夢を。