鏡を越えて

 

 

前髪をワックスで上げると気分も上がる、なんてことはないが、上げたことによって相手の気分が上がることによってこちらも上がるということはありうる。鏡越しで上がる世界。

 

鏡越しの世界は足し算でのみ眺めるべき。引き算で見てしまうと世界を否定しているようで自分がそれに縛られてしまう。黄泉平坂でのイザナミの視点な感じ。

 

 

さて。

 

本日はなんとなくwordで。
つまり、どこかに貼り付けるつもりがあるらしい。

 

毎日書いている日記調の文章が昨日欠けた。別に体調が崩れた訳でもなくイベントに押し退けられたこともない。強いて言えば、ワインの酔いによる。発話を増やして内側の言葉を樽に入れて熟成させるから、文章のお供としてはそぐわない。ビールは適度に文章脳を回す。

 

 

まず、土曜日。

 

5時くらいに目が覚めて二度寝ができずにだらだらしていると、仕事用のシャツが届く。買い替え。うとうとしたりごろごろしている12時頃、精神的に不調な恋人さんが休憩時間で、通話する。引きこもりモードの頭だから発話がほとんど出ない。そうじゃなくても僕の口からは慰撫するような発話は出なくなった。仕事だったら最低限やる。しんどいですね、大変ですねみたいな相槌的な言葉でなく、もっと具体的に。

 

来て欲しいとほのめかすもので、そういや行けるって言っていたなとなり、ちゃちゃっと楽天トラベルでビジホを予約。名古屋駅に降り立たない経路で行く。名古屋駅はカオスに精神がもってかれるため。名古屋までのぞみとかひかりで行って、そこからこだまに乗るのが最速だが、こだまだけでもそんなに変わらない(復路)。

 

会いたいって言って会いに来てくれたのが初めてだと言われたが、個人的はできることをしただけであって、特に恩を着せる感じがない。ある意味もはや勝手知ったる場所におでかけするという、職場がある隣の駅へのおでかけと変わらない。違うのは距離と交通費なだけであって、無理はない。これを鏡越しに見れば、会いに行ってあげたのだからという対価を求める世界観になりそう。

 

ただ、どんな原因があっても結果を決めるのは自分でしかない。

原因を世界に求めると、因果律が受動的になって不自由。この話はまた後で書く。

 

 

出発するとき鏡で自分の顔を見たら引きこもりモードのくせに、なかなか良い顔をしている。ついでにワックスで前髪を上げてみる。最寄り駅についたとき、ふと、僕はどこに移動しても僕だなという感じがあった。移動することによって何か意味があるというのがない部分。影響は受けるのだが、もっと深いところにある鏡越しでない自分に届く。

 

そうして恋人さんの職場の人に顔見せ(仕事中だからほんとに通っただけ)し、合流。

夜ご飯は、焼肉。肉を喰う。僕はビール党なのだが、ほとんど無いポリシーというかこだわりで、スーパードライはあまり飲まないというのがある。ビールの味の違いなんて始めの乾杯でアルコールに馴染ませるという人には分からないだろうが、スーパードライはそういうビールが特に好きではない人の需要で作られている気がする。でも、別に僕にスーパードライを飲ませようとしない限り、スーパードライ好きの人とも飲めると思う。

 

ビール枠が無かったから、お肉に合う赤ワインを頼む。普通にボトルが来て一本弱を飲んだ。最後の一杯はお腹いっぱいになったから断念。なかなか美味しかったからか、次の日も良い顔のまま。

 

酔い考察。僕は飲んだくれだし、粗相的にも色々とやらかしているが、最近はめっきりそんなことがない。過去の僕であれば、最後の一杯のワインも飲んでもっと調子が悪くなっていたかもしれない(腹具合的に)。

 

アルコールが良くないのは、それによって、食べ過ぎたり意識が飛んだりすることであって、アルコール自体の毒性というより社会的な影響値な気がする。別に擁護している訳でもない。僕が飲んでいて歯止めが利かなかった過去は、不自由な自意識を手放したかっただろうなと。つまらん飲み会でひたすら飲んでいたのは垣根が鬱陶しかったからだろうな。

 

今は、意識を手放す必要がない。この意識に不自由なく過ごしている。お酒は単に美味しいから飲んでいる感じ。許容量越えてもっと飲みたいとか仕事中に飲みたいとかは皆無。

 

今の恋人さんが楽というのもある。恋人関係の男女が会ったらまぐわうものだという当たり前を外れても不満(欲求はともかく)がなさげ。儀礼的にしてもしゃーないという素朴。よくぼーのまま相手を消費する(される)というのも違う。まぐあいがどうあるべきかというのは難しいところ。

 

 

日曜日。

 

仕事に行く相手といったん解散し、蒲郡を散策する。

生命の海科学館と竹島。どちらも書けることはたくさんあるが省略。寺社仏閣が好きなのは、神様を信じているのではなくて、その場に培われてきた歴史みたいなものを空気として読むのが好きだから。観光地も読み物。

 

竹島は本来の順路では島を登って神社にお参りして反対側に降りてから遊歩道で海を眺めて帰るルートと思われるが、まず遊歩道に行って逆走した。

 

その後徒歩で職場に向かう。この季節、歩けるようなものではない。ビールは飲んだのだが、汗と利尿作用で放出される水分が間に合わないから水とアクエリアスを飲み干した。海岸で誰も居ないと見るや、隙あれば大声で唄う。またヒトカラ行こう。

 

職場に着いたらもう汗だく。汗腺詰まってないから汗はそんなに臭くないはずだが、汗が冷えていく過程がちょっと気持ち悪い。休憩時間に良く昼ご飯を食べるところに連れて行ってもらう。存在的に愛嬌がある店員さんと恋人さんの発話的やりとりを微笑ましく食べつつ、海鮮丼を味噌汁と切り干し大根の煮物と天ぷらをいただく。ついでに生ビールも。

 

食べ終わってから、今まで履き潰した靴にお別れし、現品限りのアウトレットのコンバースを買って、伊達メガネ(防具)も。迷う時間が勿体ないのが僕の素朴だが、誰もこういう即時的な決断は教えてくれてない。だったらオリジナルかというと微妙なところ。

 

 

そろそろ本題へ。

 

自分が何かをできないということの理由で、他人のせいにするという層がある。

僕もこの世界観で生きたことがあるから分かるのだが、これが鏡越しの曇った世界。

 

シビアに捉えると、貴方が居るせいで何かできないという世界があるのは「貴方」を選んだ自分の世界が前提になっている訳で、ほんとにその「できないこと」が目的だったら、その「貴方」が居ない世界を選ぶこともできる訳。このできないは可能ではなく意志のこと。

アーティストがそんな世界でやってけるのかという感じだが、ともかく。

 

こういう世界観は、平等な関係に怒ったり怒鳴ったりできることになるが、この怒りってきっと本質的には自分にしか向いてない。でも外向的っぽい人ほど怒りを巻き散らかす風でもあり、どうだろう。

 

外の目が見ているのか、内の目が見ているのか、最終的には同じような。

 

 

価値の話が今日の最後。

 

「読みたい文章と書きたい文章は違う」というタイトルの記事を見かけた。曰く、書きたいように書いても読まれる文章にはならないし、読まれる文章には情報価値があるとのこと。

 

だからこそ、そこで書かなくなったという意味では的を射ている。書くということはその文章としての存在を承認されるという意味で暖を取りたいんでしょう、もしくはビジネスでしょうとういう前提があるから。

 

ただ、読者としての僕は、そこに情報価値なんて求めてないとなる。

情報の定義って、それを正しいとできる錨みたいなものだとすると、錨にできるような情報は、紙媒体で常々読んでいるし、啓発本みたいな文章も要らないし、安易に感情に訴えるのも要らない。

 

書きたいこと書いてない人の文章は目に触れない。いや、いっぱい見えるのだが、焦点が当たらないというのが厳密。

 

おそらく書きたい文章って、承認にかかるから、もっと厳密に言えば、僕が読みたいのは、当人が「書ける」限界の文章なのかもしれない。作法は当たり前の上で、可能な限りの追求。

 

創作は可能領域にあって、存在とはちょっと離れている。

その離れ具合の感じで生きると、承認が要らない。

 

僕は割と見てくれが良いらしいし、腹筋もやんわりシックスパックみたいだが、こういう他人から承認される面で自分が承認されることはなかった。だって、こんなのいつか過ぎ去る存在の部分でしかない。

 

そんなことより、鏡越しでない自分を捉えて、その可能を存在とするのが良い。

もちろん、相対的に色んな世界の人から観測されるが、誰に承認されなくても良い自分を自分で承認しているから、他人に憤りを感じなくて済む。もちろん自分にも。

 

自分が何をしたとしても、悪いことをしたとはしない。
そもそも犯罪係数も低いから、これで問題ない。それをして存在が承認されることもないし。

 

 

僕の文章を読む人も可能の存在。

人は自分の存在を承認する道具にはならないし、しない。

 

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。