他責ない世界

 

 

鏡越しでない自分というのは自意識過剰ではない。意識はそもそも他人が居ないと製造されないし、いわゆる他己像であって、自意識過剰は肥大した鏡像みたいなものになる。自分をそういう風にみたら万華鏡みたい。

 

鏡像でない自分は意識ではなく認識に近いものなのかなという感じだったら、たまたまショーペンハウアー氏の本の記事が流れてきた。「知性について」の天才論が何か次のステップっぽい。ただし、帰りに日常生活ルートを無理やり外して行った古書店にはなかった。

 

あんまり凹んでないし淋しくもない。認識した以上、いつかは出逢う。

 

運命論もある意味、的を射ている。ただ、僕の解釈だと降りかかる幸不幸という天気みたいなものではなく、機会の話なのかなという感じ。機会を認識するには下ごしらえが必須だし、掴むのもなおさら。ほんとうに掴める機会は意識とは別に必ず掴める。それが良いことかどうかはともかく。

 

こういう人生論は、おそらく僕が今まで準備不足によって色々逃してきたから。ただ、この逃した機会も実は既定世界線であると言う説もある。自分に対して肯定も否定もする必要がないというのは、自分は自分で決めた概念(意識)ではないからかもしれない。

 

古書店岩波文庫を一生のうち、この文庫くらいは制覇したいかもという衝動。人類が培った認識の英知が詰まっている。別にこれを実生活に適用とか応用する感じでもない。ただ、認識が拡がるだけ。この認識のパターンは実生活で誰と過ごしても何を経験しても得られないと思われる。

 

 

何やらしょっぱなから飛ばしている。

 

天才にはなれるものではないが、認識を探求することは誰でもできるということで、何かすっきり案件。ショーペンハウアーさんは、孤独が最高の自由だという名言を残しているらしい。たしかに僕もそう思う。ただ、孤独の自由を満喫しているからこそ他人と関わっても楽しいという先がありそうな。人と関係してないと楽しくないというのは、共同的な存在感の中で自分を捉えているだけであって、これは孤高である自分を何か凄い存在としているのとも同じこと。

 

内向的な人間と外向的な人間の極致は結局同じところに至ると思っている。経験からなのか思考からなのかという違い。個人的には内向的な人の方が好み。社会的な視点とは別個に人の存在を捉えることができる傾向にあるから。あと、外向的な人の親切とか善意が無遠慮気味で困る。

 

社会的な規範は、それが当たり前に正しいという問答無用な呪力を失ってきていて、何かきちんとした根拠を必要としている。最高裁判所のロジックも随分と親切になった。親切になるということは文字数が増えるということであって、要約役が必須になってくる。こういうのは人よりAIの方が得意なのでは。何を選ぶかという好みという概念はないだろうし。

 

(日記調で書かずにこのまま散策してみるという試行)

 

 

自己分析。自己認識がわりとまじでどうでも良くなっている。誰かからどう見えるかというのは、もちろん1つの指標ではあるし社交性という演目上、習得していればうまく舞える。「振る舞い」という言葉に入っている時点で儀式めいているのが社会としての場。

 

自己分析に甲斐が無いのは、きっと誰かにとっての自分を言葉で探ろうとするから。言葉はこういう方向に遣うと曲者で、この「誰か」の筆頭は自意識だったりする。この自意識はモニュメントみたいな物だから、物の観測に終始する。物をどれだけ記述したところで物そのものには届かない。動かない物についてどれだけ思考しても柱周りを追いかけっこするだけ。堂々巡りってなかなかよくできた言葉。

 

 

認識する自分は思考される自分とは違う。世界がどう見えるかも然り、世界をどう読むかという過程としてしか観測できない。

 

日本の古代の文学がどうだったかと、中国の詩経とかの時代の考察書みたいなのが一致する。日本の古代の文学は腹に来る味覚として捉えられていたというところと、中国の詩は古来は楽士が歌として伝えていたとか。人がライブに行くのは腹に音が響くからと想像。味覚を介さず腹にダイレクトに響く重低音。一体感は文学からはちとズレそうで実はあんまり変わらないのか。

 

味覚としての文学は、その味が分かる人には分かるみたいなところから、センスとか感性みたいなことになったのか。

 

そうして、世界を味わうことは読むことと同義で、どうやってその調理がされているのかということを突き詰めていくのが学みたいなことになるし、自分の舌を他人が味わった概念に依拠しないのが疑義だし。目が優位になったちょっと前の近代って、世界と自分に距離を置いて客観的に見ることを目指しているみたいだし、人には客観的なまなざしがあるという観念がありそうだが、そんなのは主観の焦点でしかないからその焦点に自分が合わないことに傾注するのは悪手。

 

自分の舌で把握できる世界が当人の領分。

 

言葉を味覚的に捉えると、手抜きで調理された文体にあんまり魅力を感じない。
書きたいではなく書けるという文脈だけども。美味しく味わう読書家みたいなところだと、どんな本も料理として食べるから、自分にとってはこういう味の方が良いとかにはならない。他人の料理に文句付けないの同じ。

 

いや、ほんとは違うのではという方向では指摘はするか。
時間の手抜きではなく、味の手抜き。母親の料理にそんなことを一言でも言えば激昂されるから相手は選ぶ。指摘されることが存在を揺らがす存在観って、砂上の楼閣みたいな自己像よな。

 

そういえば、「それから」が無茶苦茶面白い。これが恋愛小説なのかというのはともかく、僕もまぁまぁこういう感じで生きているなと。貴族でもないのに。味というより人としての夏目さんの存在感。アイラブユーを月が綺麗ですねと訳したのは有名だが、これって、日本語がダイレクトに表現できるものではないから、翻訳不可であって、てきとーな言葉でもそれが暗喩できるというだけという想像。

 

僕も人の言葉をそれほど存在として味わっている訳でもない。

目は口より物を言うという慣用句よりももっと全体の振る舞いが人の存在を表現している。言葉だけ、行動だけで確証できるような存在観ではない。言葉と行動で言えば、証拠になるのは行動の方が当然重い。

 

最後にどうでも良い話。

たまたまクズ男と付き合うのはクズ女だけという暴論のYouTubeを見た。割と中身はまとも。クズは伝線するというのも分かりみ。顔が良いだけの男と、顔が良いだけの男を選ぶ女。これはきっと逆パターンもある。実はこういう世界で生きそうになったことはあったのだが、なんともつまらなくて辞めた。

 

他人は自分の劇場の登場人物なのか、それとも自分の鏡像なのか。

自己分析で堂々巡りするよりここの観点の方が大事っぽいような。

 

しんどい理由がどこにあるのか。

 

僕は時々眠いだけで特にしんどさはない。

 

よし、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

皆、なるべく善い夢を。