知性

 

 

 

人生劇場には関門があるような気がする。難関みたいな努力で制覇するでもなく、運でもなく。ただ、満を持してやってくる。要するのは自分を高める矜持ではなく、単に自分であるという勝手に培われた殻の脱ぎ去り。

 

読める本が増えていくというのが分かりやすい。

 

 

 

ある意味山に登った祝日。

 

早朝に目が覚めて、コンビニにうどんを買いに行く。復刻版三ツ矢サイダー、塩キャラメルラテ、食べる牧場アイス(メロン味)、稲荷寿司。食ってYouTubeを見たりゲームしたりしながら二度寝。夢はタイムリーで、仕事場でどうも目が開けられずにうとうとして(現実でパジャマをアイマスク代わりにしているから)、年下上司に「気持ちはあるんか!」と怒号を受ける。申し訳ありませんとか答えつつ、その前に隣の席の人に「もうそろそろ辞めますので」と言っていたのを告げ口される。怒られようが、告げ口されようが、膜があって何も感じない。

 

こういう片鱗は普通の性質的にちょっとだけある。別に怒られたくないがために仕事している訳でもないし。伏線。

 

 

昼前に出かける。この前コンビニで買ったマッドタイプのワックスで前髪を上げ、眼鏡を装備し、アイロンをかけたネイビーの半袖シャツで出発。あまり行かない近くにある大学の最寄駅のそばのブックオフ岩波文庫棚に直行してぱっと見総数少ないから、ないかもという感じ。梯子の覚悟もしていたから、問題。青-632はあるかなと探すと、あっけなくやってくる「知性について」。満を持しての拍子抜け。もう少しじらされるのだろうなと思っていた。

 

そこから、涼を取りながら何周か歩く。統一感がない雑多が良い。大学の教科書コーナーがあってこういうリサイクルは省エネで微笑ましい。教授は真っ青かもしれないが、教科書指定本はまっさらな方が良いのが多数派だから、こういうところで買う効率派はきっと微々たるもの。

 

個人的に拡張していきたい分野は、コンピューターサイエンス、もしくは生物学(人間の目カニズム)なのだが、あまりめぼしいものが無かった。目についたのは、僕の意向とは全く関係ない、「学習する組織」というマネジメントについての学術書(中古でも2,800円だったからこの分類で良いはず)。

 

マネジメントなんて仕事上も生活上も実用性がないのだが、哲学本も然りだし、読んでみると読み合わせが良い気がする。我ながら直感のキレキレ具合。過程の感想は後で。

 

梯子の予定が無くなったから、バスで職場の駅に運試しに行くことにする。したのは良いのだが、バスの行く末を見るよりも歩いた方が早いという性質が働いて、灼熱の中歩くことにした。この季節の散歩、大げさではなく命に届きうるから水は飲みつつ汗だくで。

 

お昼ご飯はなか卯で蕎麦と唐揚げ丼のセット。とろろ(ざる)蕎麦を頼んだのだが、何故かとろろが抜けている。まぁ良いかと想ってしまうのがやばいところだよなと自覚しつつ、自然に任せることにした。とろろがなくても満腹になったし涼も取れたし。

 

(書いてみると結構豪勢に食べているが、とんと太らないのは何故だろう)

 

この時間辺りに、恋人さんの部下の僕評を聞いた。一瞬挨拶めいたことを交わした以外話したことないし、見交わした時間も数秒単位。僕評でははっきりした顔立ちで、美形に繕わなくても整っているし、はっきりさっぱりした感じの人。繕っている美形はなんというか、個性が無くなる。でも、たぶんそういう層って、きっとそうなりたいんだよな。

 

部下さんの評。イケメンはともかく、和装が似合いそうで縁側で本を読んでそうとのこと。本質を突く鋭さ。生れ落ちる世代を間違えたのかもしれない。笑

 

 

そうして、運試し。一瞬で財布が数グラム軽くなった。エヴァの暴走の演出を見るより「知性について」を読みながらでそっちの続きが気になっていたことがバレていたのかも。あと、ここであぶく銭を得たらお盆に休みにあっちに行けるという邪念とか。笑

 

これを遊戯場に絞ってみれば不運なのだが、負け惜しみ的な意味ではなく、これはこれで楽しかった。だって、ここの本質って、お金をお金としてだけで消費する場であって、増えるかどうかは運否天賦だし。資本主義社会の本質でもありそう。

 

帰ってきて、動画を見つつ、本を読みつつ、ゲームもする。

 

ゲーム実況界隈で、個人的に賢くて好きだった人(法律学の知識が節々に見える)がニコ動かブイチューバーに転生しているのを発見した。どう聞いてもその人なのだが、公式ではないから説に留まっている。個人的にはインターネット世界から卒業して社会生活に傾注するようになったのかなという感じだったのだが、インターネット世界と社会世界を連動する方向になったらしい。ビジネスとしてのキャラクターの中の声の人。抽象的なキャラクターを消費(信仰)することに違和感があっても、参加者(視聴者も含めて)はそこに何か実感があるのだろうな。

 

ついでに、サイコパスの人の配信も眺める。

僕もサイコパス傾向はあるよなーって思いながら、でもこの人も1回は結婚したあるのか、貫徹してないなとかなりつつ。

 

反社会的人格という括りのサイコパス。リンゴと梨が一個ずつあったとき、全部でいくつですかという問いに対して2個と答えられる抽象化の傾向があるというのは分かりやすい。

 

ただ、本当の本質は、社会的な意味における価値と別のところで生きていけるというとこであって、社会性が無いという意味ではなさそう。生き方はそれぞれだから、サイコパスに対して悪評価があるが、この嫌悪感は自分の当たり前ではない世界に対する拒絶感でしかなく、ある意味異邦人みたいなところ。

 

僕の反社会性は、頻度によって人の距離が縮まるとか、同情することが優しいことだみたいな(慮るだけで良い)みたいな、他人を他人として捉えなくても良いと言うショートカットの世界観であって、他人がどうでも良いということではない。

 

この人の言で面白かったのは、浮気しない男は人間嫌いだというフレーズ。人間関係を拡げる面倒さがあるから、親しみの世界の中だけで生きられるとか。そういう人たしかにおったな。

 

僕もこまめに連絡しないと存在として認知されないのは面倒。

筆まめだからやるのだが、これをやらないと認識されない人の世界に居てもどうなのだろうという感じ。認知の表現は言葉しかないというのも有りだが、普通に考えて人の認識は言葉とか行動の前にあるし。

 

そうして、ショーペンハウアーさん。「知性について」の著者がショーペンハウエルで、名前間違いしたのかと思ったが、どっちでも良いらしい。たしかに名前の音を覚えていたところで人を知ったことにはならない。

 

哲学者の定義を語るショーさん。たしかになんか分かる。「哲学するためには自己の中に暇な空間が必須」とか、「哲学史を読んで分かることは本来の哲学者が稀有だということであって、それで哲学できることにはならない」とか。

 

ショーさんは「天才」を個人の所有物ではないと捉えているのだろうなという感じ。

認識に没頭できるのは、自我に暇があるからこそ。

 

僕が哲学者傾向がありつつ、ショーさんが言うところの哲学者にはなりえないと思ったのは、哲学は闘争だと言う下り。僕は僕の哲学を客観的に正しいと思わないから、他人の哲学にも影響を受けられるし、特に真理も目的としていない。

 

闘わないという意味では詩人的な形質もあるのかもしれない。

現代ポエムってなんとなく世界に対する抗いみたいなところがあるが、本当の詩人は世界と闘っていない気がする。その言葉を発した自分に返ってこない言葉を表現している感じ。

 

じゃあ人生劇場上何を目的としているのかと問われると、ただの散歩的な感じと答えるしかない。誰か半身を求めている訳でもないし。ただ、僕の散歩はグーグル先生が時々ランニングと測定するくらいの動的な活動。

 

文章が散歩であるみたいなことが何も言っていないと恋人さんが嫌悪していたが、たしかにスライドしただけ何か言った気がしてしまうのは、日常生活でも世界を類でしか捉えられないのかもしれない。動いているつもりなだけの世界観。

 

僕がほんとうに動いているのかは、観測者による。

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。