動的概念

 

 

 

引きこもりつつ、若干キメた1日。ここで言うキメるは特に変な意味ではない。単にお風呂読書以外で書物を読むこと。書物を読むことは頭の中での移動であり運動だから、休日にならない。

 

いや、というか、人生劇場の休憩時間ってきっと閉幕するまでないのではという感じ。寝ているときは夢のなかで運動しているし、日常は体が動いているし、引きこもっていたとしても脳内の光景は移ろっている。

 

ちゃんと寝て、適度に食べて、水をいっぱい飲んでいれば肉体は休まっているはずで、動静を肉体基準で捉えていない。切り替えスイッチみたいなものがあまり意識されなくて一様に流れる。

 

夜ご飯のメインはお鍋。白菜とえのきが美味しい。

 

 

やれやれ。

 

昨日何を書いたかが定かではないから重複するかもしれないけれど、全く同じことは書けないから大丈夫なはず。

 

YouTubeで実況動画を流していたのだが、キャラの設定にも関わらず、若干口調が悪くなっていた。こっちの方が素なのか。いや、特に文句はない。軽減税率についてキレキレの発言をしていて、法学部出身というより、法務部関係なのかなとか。一般人が読んで分からない法律は意味がないというのはなかなかの至言。

 

たしかに、有名な判例がある。曖昧な法規範が良くないのは、一般人がその条文を読んだところで正しい行動ができないという理由だから、一般人が具体的場合において、その規範が適応されるかどうかを判断できる基準があるかどうかによって曖昧かどうかを決めるべきという判断。僕は標準以下の一般人だからこの基準がしっくりこなかった。えらくハードル高いなと。ただ、これって、条文の中の個々の単語の意味がなんとなく浸透していれば、普通に分かることなのかもしれない。

 

これでいうと軽減税率制度は雑多で細かいだけで類型は読めば分かるといえる。イートインとかのやつは、ルールが分からないのではなく、制度趣旨が納得されないというところにありそう。僕個人はというと、消費税を計算しながら物を買うような面倒なことをしていないから、調べるにも値しない世界。税法の本はまだお風呂読書枠に入っているが、大元の世界観もよく分かっていない。その国に物的に存在する場代くらいな意味なのかなとか。こんなこと言っていたら、世が世なら不敬罪になるところだが、使途不明の年貢で良かったのは、国家に保護されているというより、そこに居ることを承認される為だからだったようにしか読めない歴史。

 

 

ところで、「学習する組織」にシステム思考という概念がある。企業体という組織において、1つの部門、企業が独立して存在している訳ではなく、全体の構造で成り立っているという考え方。この考え方の行く末は、悪者は何処にも居なくて、責を自己(の組織)に置くということ。もちろん、その組織の中に悪い個人が要るせいでもない。

 

この話とても面白い。システム(構造)って法律だってそうだし、なんなら自分の存在もそう。たしかに全体の構造から見れば個人はごくごく一部だし、1つの大企業だって経済システムにおいては1部に成り下がる。法人には理念的(法的)には寿命は無いが、経済とか経営で見れば、個人の寿命の半分にも満たないのがほとんどという知見は、たしかにそうだよなと思った。

 

ここからはこの本に明示的に書いて居ないところなのだが行間にはきっと書かかれているはず。この自分の外に悪者がいるという解釈が学習障害なのだが、これって個人レベルの思考停止の要因にもなるんだよな。突き詰めなくて良い理由を世界の外に求める。

 

この極致が宗教性という素朴な感覚があるのがマジョリティ的日本人。でも誰かが正しいと言っていたことをするという意味では、社会に同調するのも同じことではと想うのだが、説明が付かない超然的なものの方がイメージ悪いのだろうか。

 

僕が人生劇場を楽しいと思っているのは、どちらにも含まれているそれ以上は考えなくていい、考えるべきでない、考えるなという前提としての当たり前がどれか1つ真理として在る訳ではなくて、決断の範疇にあるということが分かったから。ショーさんが割と筆頭だが、カントさんとかヴィトゲンシュタインさんとか、ハイデガーさんも良い。目を開かせてくれるという意味。

 

悪いことになってしまったときは、「手を染める」なのに、そこから離脱するときは「足を洗う」なのはなぜだろう、気になるという記事があって、こういう害がない答えのないことを考えられるのは閑暇がある哲学よなと。僕も語源は知らないが、悪い空間があって、そこに迷い込んだだけではその空間に浸らないが、そこで行為をすることによって悪に染まるというメタファーなのではという解釈。その空間から離脱するためには今度は足を動かして移動しないといけないというメタファーが足を洗うという慣用句になったという説。

 

こういう解釈は自分の中で答え合わせするものであって、人に見解を参考にするものでもないからあえてコメントなぞしない。うまいこと哲学しながら生きて行けますように。

 

そういえば、職場の新人さんが、応対に普通は使うべきでない、上手くいくように「祈ります」っていう単語をよく使っているのが聞こえてくる。祈りってそういう風に言葉として遣われるものではないというか、おそらくこの祈りって自分が失敗したということが返ってこないようにという祈りなのだよな。祈りの概念を冒涜しているから、まじでやめてくれと想う。なるほど、この人の笑いに聖を感じないのもそういうことか。ほんとに笑ってない笑顔というのは誰でも分かるような。

 

ほんとに笑うってなんぞやって、ペルソナ的でない破顔。

 

ともあれ。

 

システム思考とショーさんの「知性について」のブレンド思索。

 

「時間」の話をやたらと語るショーさん。哲学者さん達仲良しだから、他の人の知見も当然咀嚼している。時空が離れた存在に影響される仲良しクラスタ

 

時間は表象の形式だとか、内観だとか、要は、人が習得する時間の感覚は、内観を刻む基準みたいなイメージ。ただ、社会生活における時計時間も後付けだが大事。個人の時間間隔は時計みたいに一定ではないから、社会時間に合わすように義務教育で刻印される。

 

ここでシステム思考なのだが、企業体における構造の時間の流れと、個人の時間が合ってないのは当たり前であって、あえて私生活の時間と一致させる必要もない。要されるのは、仕事の時の時間の流れを調律することであって、それがたまたま人生劇場の時間の流れと一致することでもない。時間は物ではないから意志できないが、時間に合わせられないこと自体が社会に不適合とはならない。意志で合わすというか、時間が外で流れている感覚を改めるところ。

 

僕はこの辺りがずっと変だなと思っていた。私的生活で平気で遅れてくる人ってなんだって。僕と関係している時は素朴な時間感覚で生きられるのかという解釈にもなりうるし、別に待ち合わせで遅れること自体にはなんもない。不可抗力の場合もあるし、ある意味寝過ごしだって、間に合うようにしている意識からすれば他責にできる不可抗力。

 

僕は社会関係上、人を待たすことがずっと嫌いだった。

待つ時間ほど無駄なものはないと思っていたが、それほど人は人を待っていないから他のことをしているから問題ないのかもしれないと思うと気楽。

 

待つのは別に問題ない。

 

なんだっけ。

そうそう、時間から見た因果関係って、社会とか関係においては正だが、個人の中では昏倒している、概念になる。

 

時間を社会的に触感すると、単なる外的に移ろってゆく現象になるが、個人の人生劇場にすればそんなに一定方向に流れゆくものではない。説明ができないところでぐるぐるしているのが人の醍醐味なのではという説。

 

人って凄く因果を大事にする。

散歩で迷子になったとしても(因果を大事する人はそんなことしない)、何かそうする理由があったのだって。この動機の言語化も社会における時間性の概念のような気がしないでもない。

 

僕の人生劇場において、動きに対して自分で理由を付ける意味が無い。だってそれはそう動いたのだから、自分に対しても人に対しても説明不要では。自分を納得させる必要がない自分は定義不可能、

 

 

定義不可能に思索できることと、永劫回帰はちょっと似てそう。

僕は超人ではなくて単なる変人だが。

 

 

おしまい。

 

おやすみなさい。