怒りの自責性

 

 

一日中眠い。連休でしか起こらない境地ではある。

頭のねじがごつごつ引っかかる。

 

 

二度寝頃、夢の中で父親を想い出した。極まって、階段状になっている広場のはしっこでうずくまると、2人組ではない男女1人ずつに何か慰めて貰っている。女性はシルエット(逆光かしら)で、男性は中高で一緒だったクラスメイトだった。特に深い話はしたことがない。最後に会ったときは介護職を志すみたいな話をしていたか。

 

 

久々に自分事で考え事。気持ちを言語化しようとしたところで、都合良く収まらない。肯定、反対、中庸、明後日、明明後日と言葉が爆裂する。とりあえず頭を冷やそうかという俯瞰が正論を述べてくる。世界を楽しもうとすると誰か特定の人を蔑ろにしているように見えるのはいつもの欠陥。善悪で言えばいつでも僕が悪い。

 

自分に泣けてくるが、あまり意味のないこと。

僕が足りない部分を他人に転嫁することはできない。四六時中存在をしているとしても。

 

何やら「穴の穴」という場所を作って2つだけ記事を書いた感じと近いところに居る。

読み返してみるとそれほど滅裂していないのが、ある意味恐ろしげ。書かれる言葉は整然としてしか存在していない。

 

 

烏賊のお刺身が美味しい。

 

ともあれ。

本日も自発的迷子。

 

「それから」も終わってしまった。おそらく1回は通して読んだことがある。ただ、当時は全く読めていなかった。前提概念がいっぱいあるから背景が読めない。背景は行間よりももっと前にあるものであって、翻訳文が読みにくかったり昔の本が読めなかったりするのはそういうこと。

 

個人的に、読んでいる現代人違和感ないのかというのが、平岡と代助とのやり取りにおいて、「愛」がパートナーを所有物として大事にするというところ。普通に「所有」という単語が遣われているし。まぁ所有には責任が伴う=これが愛であり大事だというのは、現代のパートナー関係にも適応されるのかもしれない。現代は許容とか許可の限定解除の方が重要なような気もするが。

 

この小説でいうと、個人的にはヒロインの美千代さん最もまともな個人な感じがある。所有される女性という観念を越えている。もしかしてシュールレアリスムの影響も受けている? 単なる美しい存在として書かれているだけでなく、何か個人としての気概があるというか。好きになれるキャラクターかというと、美とか壁を越えるメタファー的存在っぽいからそういうことにもならない。

 

次どうしようかな。

明日最寄りの古書店で採取してくる。

 

「知性について」で、今度は空間の話。空間は客観的な物ではなくて、知性が世界を把握する舞台であるというニュアンス。概念とか記憶とかも中の空間にある。その中に何人居るとか、モニュメントがいっぱいあるとかも人それぞれ。

 

僕の人生劇場における楽しさは、こういう物的現象において自分が定義不可能で良いというところであって、人も定義不可能で良いというところでもある。

 

智だけを愛するフィロソフィアにはなれない。自分の物的な可動域もまだまだ気になるし

、頭の中だけ、言葉だけに真理がある世界でもない。(カラオケ行こう)。

 

ショーさんが言っていることは沁みるが、数学が低俗だというのはちょっと違うと反論したいところ。記号操作の学問だからという根拠っぽいが、数学で拡がる認識もあるよ、凡人は(僕も含め)って。数学って脳内空間の運動だから、本来は計算の世界ではない。その余裕が人生劇場で良いことをもたらすかもしれない。

 

いや、そんな何か得があるかもみたいな散歩道ではなく、単に散策範囲が拡がるかもなという動きでしかない。これが学習の本質で、正解はそもそもない。

 

サイコパスの人の動画で、教育はどうあるべきかという話があった。庶民教育と市民教育の分類が面白い。ルールのメカニズムを説明する前の初期には、「礼」を徹底的に反復させる。先生が話をしているときには静かにするとか、儀礼の部分。そこに理由は要らないという社会性。理由を考察するのはその後の話。当たり前の理由付けは言い方に過ぎない。

 

一応発話の仕事をしているから、というか、もともとずっと想っていたのだが、人って言葉の感得に一貫性がない。誰に言われたか、自分がどういう気分で言ったか、どういうムードだったかによって随分と記憶のされ方が違う。

 

言葉に対して無味無臭では居られないのが人。

味わえる言葉しか読まないし、いい匂いに寄る習性。

 

 

私事なのだが、恋人さんに、「貴方にとって私は必要なのですか」という難問が提示される。

 

これが難問なのが分からないのは、必要は言葉ではなく行為であって定義ではないというまともな感覚の人。言葉の虚構性に痛い目見てきた僕としてはまずその言語の概念の定義を欲したいところなのだが、そんなものは無いのが常。

 

僕が人と必要とする定義で最初に思い付くのは恋人関係ではなく、父親。

ファザコンになる前に人格が把握される前に退場してしまったし、父親像という権威のインストールを抜かしてしまった感がある。

 

欲したところで居なくなる。厳密には欲する前に居なくなる。

 

という視界で考えたとき、欲する気持ちにどれくらいの意味があるのだろうって思う。

人は、他人を欲することを言葉で定義しようとするが、言葉は天候と同じであって、同じ標準で僕が言葉を使うと、だいたい変なことになる。

 

人は存在なのだから、物として意志する対象ではなく、あくまで人生劇場が楽しくなるかどうか。有用でも価値が高いとかでもない。これを必要でないと言うのは淋しいのか。

 

 

人って物語で純愛を求める。ロミオとジュリエットの世界観。僕は愛した人が僕が不可抗力で居なくなったとしても、その人には楽しく生きて欲しい。ずっと覚えていて欲しいみたいな贅沢も欲さない。愛した人にこそ僕のこと忘れて欲しい。悲しくなった時にそこに居られないのだから、次の人でさっさと暖を取るべき。

 

それくらいの一方通行の愛。

 

僕の定義上の愛は、死ぬまで存在を覚えていることかもしれない。

暖を取れることではない。

 

なにせ、僕は縁側。

 

おやすみなさい。

 

良い怒りを。