まぐわい

 

 

食べ過ぎの様相。一日三食は僕にとって食べ過ぎか。顔がむくんでいる気がするのは別の要因。明日は仕事前だから調整しよう。

 

良く寝る。かなりグロテスクな夢を見た。たぶん人体と漢字の本のイメージが心象化している。首が胴体から離れているが微妙に何かビニール状の管で繋がっていて、きちんと話している。実家のこたつの布団で寝ている妹がモデルというのがなかなか。何かの延命措置っぽくて僕は目を離そうとするのだが、ちゃんと話せって言われる。そういえば、幼少期、お祖父ちゃんを見舞うのは苦手だったな。普段は一対一だったのに、そこにはやり取りを見る第三者(母親とか姉とか)が居るのがとても嫌だった。

 

何か話せよったって、僕は普段のやりとりで特に会話していた訳でもないのに。居着いて母屋のこたつでごろごろしていた。一緒に寝たときにはほのかなメタンガスの匂い。なるほど、遺伝だったのか。

 

割と厳しい人だったという風聞の祖父、僕の思い出の中では特にそんなことがない。静かにメカをいじっていた。猫と散歩したり、べとべとの黄金チャーハン作ったり。たぶん僕に直接話すことはあまりなくて、間接的に誰かと話している発言を聞いていたのだと思う。親戚一同に畏怖されている感じだったから、若かりし頃は激しかったのだろうな。

 

直接言われたことで僕が覚えているのは、「〇(名前)は勉強の才能があるから、運動の才能なくても良い」との発言。正直あんまりぴんと来てない(今も)のだが、たしかに、従妹は体に恵まれていた感じの人が居たような。

 

僕がなんでこれを覚えているかというと、成人したのち、姉と妹と三人で飲んだときの話。おそらくもうないだろうな、懐かしや。姉が一生懸命努力して、3位だかになったときにお祖父ちゃんに報告したのに全然褒めてくれなかった、〇ばかり褒めるという発言があったのセット。もしかしたら女性は勉強しても意味がないという思想もあったのかもしれないが、そもそも、僕はお祖父ちゃんに特に褒められた記憶がない。というか、家族に褒められた記憶もないような。

 

100点取ってないからだろうか。だいたいケアレスミスしか起こさない。ケアレスミスは一生直らないという先生の予言はある意味正しかったが、当時の先生よりきっと年上になって、ある程度修正がきく性質だと認識している。抜けないように意識すればある程度はなんとかなる。

 

褒められたことではないが、今想うと嬉しかったのだろうなというエピソード。中学時代軟式野球部だったのだが、体の成長も遅くて、シニアでやっているような人達とかの粒ぞろいでレギュラーにはなれなかった。たまたまフリーバッティングをしているときに父親が迎えに来ている。交通機関がほぼ無い田舎だし、実家の標高がとりわけ高いから、車で迎えに来てもらわないと、なかなか大変な中学生活。

 

たまたまいい感じに右中間に飛んだ打球があって、それを見ていた父親が「俺と打球の方向が一緒だ」って嬉しそうにしていた。こちとら生来の天邪鬼なもので、「振り遅れじゃないん」ってぶっきらぼうに返していた。僕に対して感情を見せてくれたのは、ここだけだったのかもしれないなと。大学以降のやや拡がっている僕は見せられていないからお互い勿体ない。

 

一番お酒を飲みたい人は、僕が成人する前に退場してしまった。

たぶん、2人きりで飲んだら話せることがあったのに。

 

大学時代に沢木耕太郎さんの「無名」と、重松清さんの「流星ワゴン」を読んで泣けてきたことがあったな。

 

 

という感じで、お盆ちっくな語りをしてみた。

僕が無宗教者なのは、墓参りとか、お盆のときだけしか故人(先祖)を想わなくて良いという感じが、そういうことではないだろうって感じるから。自分のことしか大事にしていないというのは言い過ぎか。

 

もちろんお盆だから思い出したのではなく、僕の存在に刻印されていることをお盆にかこつけて書いてみただけ。故人に救いを求めている訳でもなく、お祖父ちゃんお父さんよ、僕はこんなに楽しく生きられるようになりましたわ、きっとそっちもさぞかし楽しいのでしょうなという感じ。

 

冥福の祈りもなく、もっと身近な存在。

生と死はそんなに離れた場所ではないような。居ると居ないは、物理的な空間とも限らないし。

 

どうでも良いが、父親はキリン一番搾りも飲んでいたが、スーパドライも飲んでいた気がする。よし、戦争だ。笑

あと、「いいちこ」も飲んでいたが、これは美味しいから飲んでいたのではない気がする。

 

(僕が焼酎好きではないところにもよるし、高校時代、ぺろっと味見してこんなにまずいものはないという衝撃から。ビールもやばかったが)

 

何かしんみりしたが、不在に限らず人にも限らず泣けるって尊いことよな。

今は画面が見えなくなるからやらないが。笑えるのも同じくらい。

 

 

さておき。

 

前置きが長すぎてバランスが悪い今日この頃、本日の活動は、古書店に行ってきたこと。あれ、お盆って開店していたっけ、いや、この前あぶく銭で買いに行ったときに聞こえてきた雑談で、お盆は休みないですわーって言っていた、大丈夫。閉っていたとしても未読を書庫から調達するし、そりゃそうかとなる緩い人生劇場だからこそ、雑残の記憶が残っている。記憶術なんて使ってない。

 

「それから」の次になる作品はなんだろうとなると、なかなか難しいよなーという感じで店内を回る。米澤さんの「王とサーカス」が寄って来たのは、平岡が新聞屋だったからなのか。あとは、洋書とか岩波文庫系列。良いけどなんかちゃう。これは小説枠ではなく、思想枠だわ。

 

ここで他人事的に書いているのは、本を選択するのは意志ではないという思想というか生活があるから。レビューを見て前情報から選択する行動経済学的な世界でもないし、ある意味人生劇場の箱庭(ひな形?)みたいな場所。読むことができるようになった本が勝手にやってくる感じ。そんなことはないと想える人は、きっと自分の意志を崇拝している人。それだけ自信を持てるというのは良いことだが、世界は意志とか意識で全部把握できるほど狭くない。

 

本屋という個別的な空間で区切ったとしても背表紙でさえ全部の本を見ることができないのが意識。可動的な世界の部分に焦点が当たる。現代小説棚で見繕うとした意識的な視界は滑る滑る。

 

そうして満を持してやってきたのが、三島由紀夫さんの「命売ります」という本。三島さんの有名な本を全く読んだことはない不勉強野郎なのだが、やってきただけあってすげぇ面白い。こんなの意志では選ばれるはずがない。

 

割と重いテーマなのに、文体が痛快で軽やか。冒頭の良くありがちがここはどこだの後に、頭痛があるから天国なはずがないという言い回しが好き。

 

本を読むことで読解力が得られるっていう説があるけど、おそらくそうじゃなくて、文意とか論理ではなく、あくまで当人の世界観の中の空間的な把握な気がする。どれだけ読書したところで、ヴィトゲンシュタインさんの「論理哲学論考」が読める訳でもないし(僕もまだ読めない)、読書を人に薦められる人って、むしろ自分の空間の中で漂っているだけなのでは。

 

なるほど。だから、娯楽になるのか。

いや、研究者(オタク)という説も。

 

ショーさんが「知性について」で、覚書みたいな書き取りをしたら駄目だ、忘却に任せることになるから、みたいなことを書いている。察したことは書いておけとも。

 

コピペ文化がずっとオカシイと思っていたのはこういうことで、自分で咀嚼する気がなく、何か良いことが書かれているという話なのかと。たしかに軽々しくかみ砕けない結晶だが、その結晶を自分の表現に遣うのはどうなのだろう。

 

名言から、何を察したかについて書いていることがあれば美味しいのだが、名言からそれを言った人の紹介にしかならないのは研究者資質。

 

ふと、オタクと研究家の違い。前者はその領域を隅々まで把握しようとすることで、後者はその領域を掘り下げていくこと。僕はそういう知見に潜って日常に持ち帰るから、哲学者気質なのかもしれない。学者でないから変人な哲人くらいな感じ。

 

フレーズに言霊が宿るというのは、詞とか短歌とかがやっていたことだし、日本人が端的な名言に惹かれるのも分かる。日本語は演説に向いてないって「最終講義」で「独裁」を研究した学者さんが言っていた。まぁ、人は言葉に心酔できる性質だし。

 

僕はショーさんと同感で、意識的な思索の前に無意識がなんか操縦しているという説。

やっとこさこの部分で友人ができた。言葉の前になんかやっている奴が居るから世界線が動く。

 

これの説明に神様を持ってくる必要もなくて、単なる個々の人生劇場の啓示なだけ。
ここには努力も無い。

 

僕がお風呂読書でいっぱい本とまぐわっていることに対して誰かから努力している、花丸って評されたら、いやいや貴方の世界に行くために読んでいる訳でもないですしと答えたい。

 

言葉とのまぐわいは、谷川俊太郎さんの詩の解説で、言葉に対する緊張感はまぐわいみたいだなというのがあったのの流用でした。

 

でも、たしかに、公開まぐわいなような言葉はいっぱい飛び交っている気もするな。

 

はい、おしまい。

 

今日も楽しい一日でございました。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を