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雷鳴がごろごろ、場面が変わる。

まだ雨は降っていない、天気予報あてもあてにならない。

 

今日はゆっくりぼちぼち書く。

 

盆休みは完全に羽休め。日中のごろごろ具合がやばかった。

くっちゃね。流石に今日は二食にしたが。飲み過ぎも大変だが、食べること自体は全年齢なのに食べ過ぎの胃腸の稼働にエネルギー持っていかれる具合の方が個人的には大変。

 

ところで、小さい頃スーパーファミコンソフトを年に一本ずつプレゼントしてくれる叔父さん(植物学教授)。割とマイナーを攻めてくる。「エルファリア?」とか「シムシティ」とか、麻雀とか。当時のソフト滅茶苦茶高かったイメージだが、現代のダウンロードとか課金とか追加コンテンツとか考えると同じくらいなのかもしれない(プレステ2までしかプレイしていない、他に遊びが見つかったから)。

 

その中でもっともやり込んだと思われる「エストポリス伝記Ⅱ」のRTA動画を流しながら、スマホでアプリゲームやら漫画やら貪る。「RTA」って人のプレイ動画を鑑賞する趣味がない人には全く見たことがない単語だと思われる。時間を縛ってなるべく早く全クリするということで遊び要素を追加するというプレイ。ゲーム世界のやり込み要素を省くから、やったことないと見られないという、初見さんお断りコンテンツ。状況再現とか乱数とかプログラミングちっくだし。

 

このソフト、小学生当時に詰まりそうになったギミックがあった。「神々のトライフォース」のガノンも詰み案件だったが。アクションゲーム全般へたくそ。どうしようもなくできなかったギミック(たしか姉もできなかった)は、草が生えきる前に刈るというやつ。1マスずつ空いた16箇所あって、1歩あるくごとに一段階伸びてくる。場所を覚えればなんとかなるといえば、そうでもなく、歩かずに回転する操作とか、何回剣を空振りするとか、小学生のていとーな操作性ではかなり難しい。たぶん今やってもそうだろうな。RTAの人もミスすることがあるくらい。

 

 

そういえば、よく行く理容院の店員さんは現役のゲーマーで、実況動画も良く見ているのだが、僕にもやったら良いんじゃないですかという悪乗り発言があった。たしかに、初見さんお断りの実況動画を眺めるだけで楽しいし、眺めているだけで色々覚えている。ゼルダの伝説神々のトライフォース以降、自分はプレイしていないけどもだいたい見たし。

まぁ現実的に考えて、そんな収録している時間はないが、誰かが横でプレイしているのを横からがやるのは面白いかもしれない。

 

良きサブカルチャー

 

こういう、いろんな場所があるというのは、まさに「遊び」であって、真面目に生きている人からしたらけしからんみたいなことになりそうだが、大事なことをあえて意識から離すことができる気晴らしの場所があることは、思索とか、脳の機能上も、なんなら精神衛生上も大事。いや、僕は真面目に見えるだけの生来不真面目だから、どこに居ても余白があるような感じで、もともと教わった世界とは随分違うなというだけ。

 

努力は1つのことをし続けることだが、そこにだけ居てそれが絶対的に分かるようなことになるのは職人であって、研究者しかおらない。研究者でない人は同じところに居続けることはできないと思う。あと、それに時間をかけたら習得できると言うのもある程度の真実でしかないという説。だって、僕は僕で生きることに時間をかけているはずだが、ちっとも知識がないし統御できていない。

 

知るって法則の把握であって、不都合なことは排除できるはずではなかろうか。もしくは不都合を自分の中に留められるようになるとか。

 

 

生きていけば分かるようになるという諭し方をする人が居る。

これって、おそらく自分の知見が普遍的なものであるという認識がないと起こらないはずだが、その知見ってほんとに自分を生きたから生まれたものなのだろうか。自分を生きたら他人に適用できる知見にはならないような。

 

いや、分かる。自分の成功体験にとってこの行為が有用だったという現実を流すこと。

 

メモとか板書とかは個人的に最高の悪手と思うが、社会人なのでメモを取っている風にはしている。僕としては、その知見をもった上で、当人にとって最善手を一緒に考えるくらいのスタンスが上の知見の領分だとは思う。ただ、会社組織では教育コストがかかるからバランスが難しい。会社組織に宗教が介在していることがあるのも分かりみ。完全な資本主義の中では人格は生きられないから、思想上の統一感を醸す、みたいな。

 

教育で言っても、僕の時代はきちんと板書を取っているかみたいなことが評価対象だったが、こんなのプリントで配った方が早い。手を動かすことで浸透するというのありきだが、こんなの、需要な用語だけを穴あきにした方が良いのでは(試験の準備)。

 

 

あれ、なんで教育論になっているのだっけ。

あぁ、なんかした方が良いとか語る人の読書論がアレなのと、「学習する組織」で、学習するほど無知に気付くみたいな話があったからか。

 

無知の知」って、色んな解釈がある良い言葉。

今日の文脈だと、知があればあるほど、自分の無知が自覚されるということ。

 

 

個人的に読書量増えれば読解力が増えるみたいな直線的な価値観は嘘っぽいと思っているから、本を読めとか、本を読むことに価値があるという言説は、世界が完全に読み取れるものだという世界観なのだろうという感じがある。

 

読書して読解力が増えるとすれば、自分の関心(視点)とは別にある世界があることが分かることであって、論理構造とかの話ではないような。日本語ってきっと論理を語るような言葉でない。そんな語用倣わないし。

 

カントさんが、美が無関心の領域であるというのは、鑑賞者の都合の外にあっても美しいと感じるからという解釈。こんなの論理ではない。直感。直感はきっと読書によっては醸成されないとされている(僕はやるが)。

 

いや、論理構造がしっかりしている文章は一応法学にある。「とすれば」という言い回しが好きだった。「そうすると」でも同じことだが、要は、前提を論説した後の発展。かくかくしていて楽しい。きちんと分けて書くような文化もないから、知識っぽいことを書いている文章は説明書みたいになって、個人的にすごく読みにくい。見出しがある文章が基本的にほんと駄目。引用は問題ないけど。

 

(あくまで個人的感想です)

 

 

 

こうやって、ごろごろしたことによって余白が捗る。

濃厚な本は読み手に余白を求める。

バズるべくがない本、いや、NHKの名著シリーズではありうる。

 

命売ります」って、帯には痛快小説だと書かれているのだが、なんかちょっと変な感じ。僕の直感だと、割にホラーというか、契約と命の混在というか。

 

命売りますコーポレーションは顧客が命を費やして何かをすることを求めてくるのだが、その対価として、顧客に変な動物を買って、変なルーティンをしてくださいと契約する。それをするたびに僕のことを思い出して下さいとか、なかなかの怖い言霊。

 

日常生活において変なことがあってもすぐ忘れるのが普通だが、意識が忘れたとしても無意識には残っているから存在上の齟齬が起こる。

 

というのを自己発掘でやっているもので、人に忘れられたくない、残っていて当たり前を強制するのはまぁまぁやばい人格だと思っている。僕はそういう刻印的に過去の人に残る必要がないし、残らなくても良い。

 

「それから」もなかなかタイミング上ちょうど良かったが、「命売ります」もなかなかやべぇ。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。