なかなかイレギュラーな平日。あわあわであってぷりぷりではない。
心から現実がはみ出したときに溢れたものをどう捉えるか。僕はなんだかんだ楽しい。
夢の中で体を弄りまさぐられ、連休明けの仕事に向かう。
雨がちびちびと降っていて、いつものルートが道路工事で通れない。ルート分岐はいくつもあるし、雨はそろそろ降らないと世の中が大変だろうし、構わない。
同期が連休明けで髪を切っていた。気付いていても言わない薄情者。他の人に似合っていると言われていたのは聞こえてきたし、まぁええかと。言う機会があったとしても、「さっぱりしましたね」くらいなもの。
ここら辺で、異性の部下が髪を切ってきたときの上司の何か微妙な気持ちを想う。普通に言及したらええやんと思うが、どんなに当たり障りがない言葉でも指摘に嫌悪感を抱いている相手に言えばアウトだし、普通にアウトなことでも、懇意であれば流されるという微妙さ。もちろんこれってどっちが異性でも、なんなら同性でも起こる。
セクハラ・パワハラが難しいのは、ルールって基本的には完全に黒である、白であるという典型例があるから、行動の予測ができるという意味での自由が保たれるのだが、こういうガイドラインは、判断する人によって全然変わってくるから、判断される側にとってはどう行動すれば良いかの予測が立たないこと。
僕は職場でも障らないし触らないから問題ないが、こういった空気がルールだという何も言っていないようなガイドラインにも何かしらの意味はあるのだろうか、たぶん意味があると想える人は、自分が一方的に判断する側に居られる人なのだろうな、とか。
本来は下世話な話題が溢れている職場環境が良くないみたいな話だったような気もするが、これって、あらゆる属性に適用されるはず。ただ、単なるその場における空気感を外から風通し良くしたところで、その場の空気はそのままだから、合わないなら離脱するほかないような。
そもそも、誰にも平等で属性を捉えない、能力だけ、人格の良い部分だけしか見ない場もだいたいやばそうだし風通しを気にする人は、全体というより自分が属する部分に対してなのだろうな。
ちなみに、髪を切った同期の像は、切ったなとは思ったが、あまりさっぱりしたなという感じはなかった。お洒落な先輩さんが切ったときにはあったのだが。
いったい自分が何を捉えているのかがワカラナイ。
仕事を終えて合流。弁当ルーティンを覆し、ご飯を食べて帰ることにする。
ずっと気になっていたお店。生中がエビスなのが素晴らしい、安い。鶏のお刺身、アボカドとマグロのわさび和え、剣先イカのお刺身、牛タンの塩焼きをいただくというたんぱく質だらけ。どれもうまい。
店員のお姉さん(?)も何か良かった。素朴な感じでよく気が付く看板娘(?)みたいな感じ。誰かがトイレに行こうとしたとき、今別の人が入っていますよって言える視界の広さとか。という外観なのに、両耳合わせて6つくらいピアスが空いているアンバランスさ。
個人的にピアスフェチである。自分では空けないが隙間を作るアンバランスな精神の官能性。単なるファッションですわと言っても、ファッションの起源が埋めたり隠したり空けたり足したりの超自然の領域にあるし。
普通に考えて、裸状態と甚平の布を羽織った状態の違いってほとんど変わらない。水着が極致か。ファッション論も潜水下で読んでいたり。何かをまとうことによって自分の像が変わるというのは変な感じ。馴染むことはあるとしても。
甚平が馴染むし、ある程度の匿名も馴染む。
やれやれ。
帰ってきてから読んだ、「命売ります」の吸血鬼の未亡人の人とアンバランスな店員さんの色気が重なる。色気があることと、その人とまぐわいたいとは全然違う。色気は対岸にあるが、まぐわいはあくまで関係だし。
今日は短めだが最後。
普通の人の中にある情報って流れていくファッション(装い)みたいなもので、存在に昇華することはないのかなという説が起こってきた。
ショーさんも僕に負けずに辛辣だが、同じようなことを言っているような。なんというか、記憶に残っているかどうかみたいなことは誰も問題にしていなくて、単に、近さだけを大事にする。例えば、1ヶ月前の今日の自分が何をしてどう過ごしていたかは気にならないのに、時計時間とか人生劇場時間とかが大事なのは、何か変なような。
僕は記憶しているのではなく、時間性が雑だからいちいち過去としていなくて、人の中に僕が残るんじゃろうなと制限してきた部分があったが、たぶんこれは杞憂でしかなかったとそろそろして良い気がする。
僕が欲さなくても人は僕のことをきちんと忘れてくれそう。
だから、人格の固定が当人の中での再構築でしかない。
この認識が何に生かされるかは不明だが、不明なものの方が行動に生きるんだよな、という経験則。
はい、今日はここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。