交換不要

 

 

昨日は「洋」だったから、本日は「中」。麻婆茄子。美味しい。だいたい中華料理を作ると優しい感じの味になってしまうのだが、本日はパンチが利いている。もとレシピでは甜麺醤と豆板醤のところを、麻辣醤と豆板醤しかなかったから辛い×辛い。甜麺醤の甘味のために日本の味噌を少しだけ入れた。

 

とはいえ、昨日の見込みハンバーグの方が見映えが良いような。美味しそうな見映えの料理を作るのは、美味しい料理を作ることより難しい。見映えが悪くても美味しい料理はいっぱいある。卵かけごはんとか。

 

このメイン料理を貼って遊ぶシリーズをやってみることを思い付く。料理は毎日作っているから、見映えと、見て名前が分かる料理を作っていけばいい。ただ、洋と中はともかく、和は見目麗しさを狙って作るのはハードルが高い。明日は魚の気分で、ブリの照り焼き、カレイの煮付け、サバの味噌煮みたいな選択肢が浮かんでいるのだが、上手く撮れるように作れる気はしない。美味しくは作れるだろうけども。

 

あと、料理をコンテンツにするには、圧倒的に食器が足りない。笑

 

副菜のミニトマトとワカメの酢の物風のワカメが、凄くワカメらしい味で美味しい。

 

 

食生活でも遊んでいる。

 

 

どうでも良いが、今BGMで、楽しい夜が続けば良いのに~って歌詞が流れてきている。

楽しさって受動的に続くものではなく、続けるものという立場。まぁ、イベント事の楽しさというのはある。飲み会の後に1人になったら寂しくなるとか。

 

ただ、これってほんとに楽しんでいたのかというと、どうも良く分からない。

ほんとに楽しいことって、そこに留めようとするエネルギーではなく、未來を切り拓く原動力とか、過去を乗り越える踏み台になるのではという感じ。その場だけ楽しいみたいな話ではない。

 

いや、僕の場所と時間の感覚がおかしいのかも。

 

 

ビールが甘い。

鼻水が出る。

 

さておき。

 

雨についての科学的っぽい記事を読んだ朝。曰く、雨のメカニズムは完全に科学的に解明されてはいないらしい。科学的に解明されるということは予測もできるし際限も可能だということだから当たり前か。雨が起こる条件(雲とか)は把握されていても、雨粒を構成するためには核が必要で、この核がどこから上空にやってきているのかというのがわからないらしい。無機物ではそれになりえないとか。

 

2つの説が紹介されていた。1つ、宇宙由来の有機物。ウイルスくらいの大きさであれば大気圏を越えるときの熱が低く(500度)、時間も短くて済む(1秒)らしく、ある種のウイルスだったかが消滅せずに残ることは証明されているという話。もう1つ、地球のきのこの胞子が舞い上がって核になりうるとか。

 

どちらも良い。雲の形成条件にも宇宙線(詳細不明)が影響しているらしいから、ひっくるめて雨が降るのは宇宙由来だというのはしっくりくる。きのこの胞子説も菌が地球を支配している感があって楽しい。

 

雨がどういう仕組みで降るかなんてどうでも良く、気圧が下がって頭痛がする、湿度が上がって髪がくるくるする、洗濯物が乾かない、服が濡れる、手が傘に取られる、という困り事の方が大事という世界観もありだと思う。

 

僕は幼少期から雨を眺めるのが好きだった。最初に孤独という概念を感じたのはカーテンの隙間から土砂降りを眺める1人の夕方だったし。

 

 

仕事の話は特にない。

先生が休みでも仕事は回る。「学習する組織」で、人のビジョンは回避に寄るみたいな話があった。しなくて良いことはしてはいけないになるし、その中でも何かしようと思うのは異端になる。僕はもう次の場所があるだろうなと思っているが、居る限りは使いたい、が、そんな立場でもないという。

 

昨日の料理マウントの下りとなんだか近いところ。自分が自分の仕事をしているからといって、場所を取って良いことにはならない。この辺りには割と想うところがあって、今まで色々気にしていたのだが、割とどうでも良いことだったなと楽観してきている。居場所みたいなのは想定とか想念みたいなものであって物理的な時空を占めることでもないみたい。

 

同調は程度問題だという記事を見かけた。強いのが敏感な人で、無いのがサイコパスだとか。僕はどちらもあるのでなんとも言えないが、敏感な人が最終的に自分の感じに集約するのがなんともよくわからないところがある。その影響って具体的な誰かないし、その集合なのだから、相手ありきの話よなと。サイコパス傾向の人はこの辺りを切り分けられるみたい。

 

どちらが個別的な人をきちん捉えられるのか。

中間領域の人はどうなのか、とか考えていくとキリがないから、基準は絶対的にする必要がある。別に言語化する必要はない。

 

個人的な感覚だと、僕が話せると思う人は同類ではないような感じ。

そもそも人の中身に同類はないのかも。これが淋しいかどうかはきちんと自分を確保できているかによる。

 

だいぶ変わってきてしまったが、そぎ落とされただけなのか。

見える現象は変わらなくても、それに影響を受けるかどうかの取捨選択ができてきている。

 

ほとんど感覚的な世界であって、説明できないところもある。

人は自分の世界で生きるしかないみたいな標語の世界よりは少し細かくて、嫌だなーとかしんどいなーとかの感情が起こる事象が無数にあったのが、ほんとにすっきりしている。

 

文章でも、これを書いたら理解されないだろう、なんとなく共通の語彙にしなければという自縛があったし、相手の言葉にちゃんと応答しないといけないという交換の呪縛があった。

 

交換の呪縛って、ほとんど出てこない観念だが、これって資本主義の感覚が浸透しているからなのだろうなと想う。僕はまずここに違和感があったから、交換に馴染めない。

 

交換の概念って、要は自分がした分が返ってくるとか、相手には返さないとみたいなことになる。もちろん前者が強い。私的関係でも、例えば自分のことを好きだったら、これはしれくれるよね、自分はアレをしているのだからみたいな感じ。

 

そうじゃなくない?

返ってこなくても何かをしようと思えるかどうか。もちろん、お互いに。

 

法律学をやっていて、なんか変だなと感じたのが、所有権の概念。

専門用語で言うと、所有権は物を排他的に支配できる権利であって、内訳には使用価値と交換価値がある。ただ、強い権利である反面に、土地の隣人関係で調整する条文もある。

 

占有権は分かりやすいが、ここにも意思が入ってくる。

自分が所有するんだという意志をもって支配することによって成立するみたいな。担保物権はもっと分かりにくいが、所有する土地とか物を質にするという感じ。

 

この変さを解明してくれるマルクスさんの論考。まだ学習中なのだが、土地の誰かの物と括ることによって、世界の感覚を細分化する。で、その物を先取りした人がその領域を支配するという、変な話、SF感がある。

 

資本主義って世界を分断する考え方であって、それが上手くいかないのは分かり切っているのに、なんとなくこれしかないという風潮があるのが不思議。もっと良い作戦を考えようという発想が起こらないように釘付けにしている感。

 

僕も別の代案がある訳でもないけれど、物に固着しなきゃいけない世界観では生きられないなというだけ。

 

だって、この自分は誰とも交換されないし消費もされない。

 

はい、口が閉じてきたのでここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。