ねむねむ

 

 

1日かけて寝ていた。滋養強壮。そろそろ森林浴も良い季節。

 

グーグル先生が去年の今頃の旅を教えてくれる。豊岡? 豊橋と見間違え、去年も行ったのかと一瞬想う。違った。行こうと思っていた演劇がこのご時世で休演になったから、1人で会場がどんなところなのかと見に行ったのだった。

 

当時の日記を読み返せば詳細は一発だが、そんな無粋な真似はしない。高速バスで城崎に降り立った。バスも計5人しか乗っておらず、温泉街も閑散としていて風情がある。観光課はしんどかったろうな。電車で豊岡から数駅先に行ったような。海岸沿いに目的地があった。おそらくこの海岸の何処かが暗黒期の花火大会の会場だったろうなぁと思いつつ。会場になる予定だったところもなかなかいい感じ。誰も居ないのも良い。

 

そのあと、時間があって地図を見ていてムラムラしてきて、城崎峠(正式名称なのかは知らない)を歩いて越えたのだった。しょっぱな道を間違えて団地に迷い込み、自販機でアクエリアスを買った。最終的に車用の道だろうという峠越えをして、「城崎にて」に登場した柳? を見て、夕方の提灯がきらめく温泉街を汗だくのまま横目で通り過ぎて直行で帰って日記を書いたはず。

 

たしか、山の道路で蛇に出逢ってびっくりした。岡山の湿原に行く道中でも池で蛇がにゅるにゅるしてたなぁ。喫緊では昨日ゴミ捨てに行ったら頭の上にヤモリが落ちてきた。個人的には雨の日の通学路にいっぱいいたイモリの方が身近。ひっくり返えると赤と黒の反転がグロテスク。

 

これがたったの去年の話。

ここ3年くらいとても濃密に生きているから全然忘れない。場所の移動は、行ったという記録より、その場で得た体感の方が大事。これは誰とも共有できない固有の経験知(値)。

 

 

さておき。

 

日中は食っちゃ寝。朝ごはんはかけうどん。かけうどんの味を感じるためには砂糖を多めに入れるのが良いと学習。昼はいただきものの和歌山ラーメン。固めに茹でていただく。

 

精神的なご飯としては、マザー2の実況動画を聞きながらうとうとしつつ漫画を読む。僕はゲームではほとんど移入した記録がないが漫画では泣ける。この違いってなんなのか。ドラクエⅤの嫁選びでも迷わなかったし、マザー2もやっている当時は特に何も感じずにやっていた。今だと、色々物語があるのは分かるが、当時はクリアすることが目的だったし。でも残るものがあったから今でも見返せるのか。ちなみに僕やってきたゲームで一番を挙げるのであればゼノギアスになりそう。深いのが好き。

 

本日読んでいた漫画のメインは、ワンピース。某アプリでアラバスタ編まで無料だったから一気に読んだ。連載開始時から毎週ジャンプを買っていた勢だから、感慨深い、ということでもない。面白く創られているのが面白い。

 

恋人さんがこの漫画を好きな人と仲良くなれないと言うのも分かる。個人的な味覚に過ぎないが、この漫画って、小説界で言うところの東野圭吾さんと近い。僕は小説ではちょろくないからこの人の作品は読めないのだが、漫画ではちょろいから、読んでいて普通に泣ける。

 

社会性に浸れるというか、移入できるという意味で、現代における劇場感。当時のシェクスピアの演劇を見てすげーすげーなっている感覚と近いのではという想像。完全な偶像はなんて存在しなくて、偶像は身近な感覚の延長にある。

 

別に否定している訳でもなく、カタルシスを読者に提供できるというのはストーリーテラーとしての才能だし、1つの時代を築いているのは凄いこと。

 

小説でちょろい時期は、世界の中心でなんとかで泣いていた。

 

ただ、味わいとして面白いのかというと、別の話になってくる。

社会的な反応というのは何をすることもなくインストールされているもの。文化人類学に三分類があった。精神に属する、行動に属する、物体に属する。ここで言えば、社会的にカタルシスを感じてしまうのは精神上の文化。ここにおける自分は社会とかなり未分離になっている。悪者が討伐されてスカッとするのは、そういう世界観が勝手に学習されているから。

 

個人的に、あんまり勧善懲悪的な世界観の物語は美味しくない。悪いなりに事情があるみたいな調整ではなく、全体的に見れば悪も善も特にないみたいなモデル化されていない雑多な世界が良き。

 

まあ合わない物語が存在できるのが表現の自由の真骨頂だから、合わないものに対して批判するより、合うものを探したほうが時代に適う。

 

僕の母親は、行動規範は制御しがちだったが、創作界隈には特に方針がなくて、下世話とされているアニメにも特に何も言ったことがない。当人の書棚にはサガンとか文豪みたいなのが連なっていたから、何かほんとうは別の世界があるのかもしれない。別に探りたいとも思わない薄情者なのだが、基本的にかなり不器用だとは想っている。

 

僕の不器用さも系譜なのか?

いや、これはポーズのような気もしないでも。

 

やれやれ。

 

キャッチャーインザライが思いの外美味しい。野崎さん(記憶が違っていたら誤情報になるから一応調べて一致)訳だともっと殺伐していていてこれも美味しかったが、村上さん訳はなんだかゆるゆるしている。

 

良い文章は、作者と大親友の気分になって電話をかけられるというフレーズ。まさに僕がそんな感じに読んでいて草生える、笑みがこぼれる。

 

この読み方、誰も教えてくれなかったが、自分にとって面白い文章があったら、そこにはそれを書いた人が居る訳で、単に読み物としてしか消費できないっておかしな話。この文脈は所々書いているから良いか。

 

読んだ印のようにスキが集まることで、承認欲求が満たされるというのも何か変な気がするが、これがインターネットの文章界の社会性であるということであればまぁ良いかなという感じ。僕はそういう文化に付き合いたくないから、読みたい人だけやってきて、何か休まれば良いという縁側としての存在感で良き。特に作法もないので随意に。

 

 

ちょっと18禁の思考が出てきたふとしたお風呂読書の時間。

苦手な人はここまでにしときましょう。

 

食べることとまぐあいが近いのはまさに確か。下世話に見れば、睦まじく見えるカップルは夜に食べ合っている。こういう見方を禁忌にするのが社会性としてのベール。人は因果を求めるのに、性に対してはなんとなくブラックボックスにするのがしかるべきという感じ。

 

あんまり構造解析するもアレな気がする。でも、因果は自己満足の解釈で、構造はもう少し抽象的。自分がそれをなんでやったみたいな因果で自分の行動を解釈していない。構造的にはひねくれ者だからだなと。

 

恋人さんに人妻キラーと解釈されている僕。

個人的には隙間が見えただけで、別に穴を塞いだ訳でもない。きちんとできた人って、5人くらいなのでは。読んでいる小説で、まぐあいを愛すると評して遊んでいる人物が居るのだが、僕はそこまで時間がない。恋人さんに解消しまくっていた時期はあるが、それをしていることで、支配というか自分の領域に居るという補償みたいな感じ。全然面白くない。

 

この辺りで、性的な意味合いにおけるSM考。

 

僕はおそらくSっ気がある。でもこれって、無理矢理相手に何かをさせるという世界観でもない。相手の良いように開拓するという感じ。ここで働くのは経験則ではなく、相手を読む(味わう)こと。自分の良いところだけ感じて相手を蔑ろにするのはSではなく相手を消費物にしている紛い者。Mも似たような紙一重。受け入れる対象が誰でも良いのはほんとのMではない。

 

初めて恋人さんとまぐわったとき、初めてじゃないでしょうと言われたのは、才能ではなくこの人の良いところはこの辺りなのだろうなって具体的に捉えていたから。

 

どうなのだろう。

こういうのって人に具体的に聞けることではない。相手が違うのだから経験則なんて役に立たないのに、それでできるとなっていそう。

 

この経験則を読むのがM的な世界観ではある。

 

なんでこんな話を書いているのかは知らない。

無軌道な自分を赦しているだけ。

 

でも、普通に考えて、当人の人生劇場において、他人によって世界を変える必要がないんだよな。精神の不調も含めて当人として確立されている訳で。

 

はい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。