言葉の呪力

 

 

 

自分で在ることの証明は簡単だが、自分に成ることは難しい

人間は一生過渡期。上に伸びるとは限らないから、成長期でもない。

 

 

頭の中がスッキリしているのは、精神界に空間が無くなってきているかもしれない。頭の中を断捨離してスッキリするという手もあるが、僕は境界を無くすことを選んだらしい。境界を無くすとはなんぞやという話だが、外に在る括りをもって採り入れられる世界の敷居をあえて外していくこと。この世界にもともとあるとされる枠を取り去っていくことが哲学という学という気がする。取り去った後に抽出された要素を自分でまた組み立てる。カントさんがやっていたのはこういう体系化なのではと、判断力批判の解説本である「美学」の3周目を読んでいて発想する。

 

だからなのか、目次があるインターネット文章というのがとても読みにくい。目次で枠を作られるとつるつる読んでいるリズムが途切れてしまう。もちろんこれが主流なのは分かる。要は書籍のミニチュア版みたいなもの。論文クラスの数万文字なら目次を振るのは分かるが、僕はそもそも目次とか章の題とか気にせず読む奴だった。専門書だと章はすなわちカテゴリーだから、どのカテゴリーを読もうかというところで調べやすいが、特にカテゴリー分けもされていない文章において、場面転換のために付された目次は正直読みやすさを排除するスペースの使い方だと思っている。

 

このミニチュア化って、文字が読めるからといって文章を1息でどれくらい読めるかという体力とは別の話ということなのだろうな。情報を摂取するための媒体として文字は映像に劣るから、映像的な文章がよろしい。

 

個人的には、文章の中に含意された情報量は映像として流れていく中で留まる量より遥かに多くて、この多さを把握するためには書を読む筋トレは欠かせないとしている。視力は鍛えて鮮明にするのは難しいけれど、頭の中を鮮明にするのは、映像よりも文字情報。頭で埋めていく能動的な余地がたくさんあるから、歩かないと辿れない。車窓は自分が動かなくても流れていく。

 

もちろん車窓の景色も大好きだが、これはまた別の能動性。

 

ここのところ、数学の本で空間ベクトルの章を読んでいる。最初に勉強した高校時代にはさっぱり分からなくてかなり苦手にしていた。ベクトルという概念が頭にインプットできてなかったのだろうな。方向と位置と移動する仮想的な空間の中での演算。もっと言えば、自分の位置が絶対空間という感じだったから、頭の中で別の空間のことを考えられなかった。割と現実の延長的なところ。

 

僕が得意と言えたのは、数列とか確率とか方程式。ここは空間がなくて数字をこねくり回せば答えに辿り着ける。三角関数が苦手だったのも空間性か。

 

読みものとしてとても楽しく読んでいる数学界。

 

さておき。

 

時空と言えば、昼休憩のときに今週の土曜日に観に行く演劇の劇場である体育館に行く高速バスの予約をしようと目論んでいた。城之崎温泉よりちょっと南か、ちょうどいい停車駅があると探し、近所から出発することも探り当て、ちょうど良い時間もあったから楽天トラベルで予約しようと思ったら、まさかの満席。このご時世に満席になるとは思っていなかったが、演劇に行く人が少なからず居ると考えるとまぁえぇかとなる。あと数分早ければ自分が席を取れたと解釈するのか、他にも行きたい人が居たなら行けば良いと捉えるのか。

 

人間が把握できる時空には、1つの時間と空間には1人しか占められないからこういうこともある。

 

まぁ、やりようは外にいくらでもある。極地にはあえて「行かない」とか。でもこれだと劇場の予約は取って席を占めてしまったし、なにより面白くない。バスで空いてそうな便もまだ2つある。開演の6時間前に着いてしまうか、開演の19分前に着くか。後者は順調に行けば時間ぴったりに付けそうな停留場だが、何かトラブルというか、バスが普通の渋滞に巻き込まれるリスクは僕にはコントロールできないし、開演時間に間に合わなくなると悲しいので除外。前者は、6時間くらいその辺を迷子散歩していたら1瞬だから暇を持て余すことはないが、睡眠時間との兼ね合いで前日の通話時間が短くなるのは嫌だなと。

 

で、何をぐずぐずしているのかという最上は、交通費が増えるではなく、行きと帰りの交通手段が同じということが詰まらないという感じの問題。帰りをバスにするという手もあるが、そんなちょうど良いバスはあるのか、いや帰りはなるべく早く家に着いておきたいなぁ、と、感じがうずまいている。

 

こんなの何の悩みでもない。単なる選択肢の模索。

 

ただ、ちょうど良い時間の高速バスが取れなかったのは、不運というより、行動の遅さを咎められているような気がしないでもない。最近の信条というかもともとなのか、ほんとにしたいことはしようと思う前に既にしているという感じだから、何かぐずぐずしているような風情がある。まぁそんな身の重さもちょっと楽しい。

 

そういえば会社からメールで送られたストレスチェックもまだしてないな。

どう答えればストレス皆無となるかは去年の1回目で学習した。たぶん同じ質問がやってくる。ストレスという言葉は僕の辞書には無くなってしまったが、筋トレみたいな意味での負荷はかけるべきだとはしている。もちろん、物理的な筋トレはしない。普段使わない筋肉で自重が増えるのも面倒だし。

 

はたして、本日の文章は何が語られているのか、なんもない。

 

やれやれ。

 

キャッチャーインザライって、こんなに臨場感ある小説だったろうか。描写から想起されるシーンが生生しいのは、きっと読解力が上がったからか。サリンジャーさんも結構メタ的に書く人っぽいな。メタ的な描写というのは読者当人であって、作品自体が読者を見ている。マザー2もそんな感じ。

 

僕が何故演劇に惹かれるのかというのを文学畑で育った恋人さんが考察してくれた昨日の通話。僕の世界観とは違うから、そこに遊び行く、ないものねだりみたいな感覚なのではという評だったような。

 

たしかに、そんな感じはあるが、僕は無いことはねだらないのでそこだけは違う。

劇場の面白さを何に置くかという話になってくる。「劇」の完成度で言えば、リテーク重ねた映画とかアニメの方が浸れる。

 

かといって、舞台に上がっている人の人間性みたいなものも、別に観ているだけでは分からないから、人間がやっていることが大事なのかというとこれもまた微妙なところ。

 

割と微妙なニュアンスで、言い方によっては不遜になってしまいそうな感じに僕の楽しさがある。

 

変な話だが、あらゆる舞台に上がっている人に対して特に羨望がない。演劇で言えば、もちろん稽古と素養で磨いたカリスマみたいな芸があるが、それはあくまで芸術であってそれが自分にできないかどうかの前に、舞台の上か下かを分けないから、てらいなく観ている。

 

臨場感。このシーンはこういう風に演出されているとか、危険がないように非常灯は消さないのだなとか、そういう枠の構造みたいなもの見えるのが楽しい。

 

ない物ねだりではなく、そういう場に遊びに行っているという感覚。

冷やかしでもないが、没頭している人にこんなことを言ったら冷やかしに写るに違いない。

 

没頭の本質は持って帰ってきて日常の景色が変わるということだと思うが、そこまで自分に成る勇気はなさそう。

 

人は基本的に世界を都合良く捉えるから、世界観を揺るがすような言葉はないものと捉えるか反発して攻撃(守備)しようとするかのどっちか。

 

僕がこれだけ文章で自由になっても発話で自由になれないのは、人の中にある言葉の呪力を信仰しているからであって、特に口下手な訳でもないのかもしれない。

 

それを指摘したら攻撃と捉えられるとか、そう発言するということは常識的にこういう意味合いを持っていると解釈が外にあるとき、なんも発話できねぇとなる。

 

言いたくないというより、言ったところでとかの感じ。

 

言ってみたらいいんじゃない? くらいにはてきとーになって来ているから、次の場所はもっと面白くなるに違いない。

 

自由であるという観念が取り去られたところにほんとの自由がありそうな。

 

知らんけど。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。