言葉の不定形

 

 

朝ごはんは納豆雑炊。ゆっくり嚙む。冷凍ご飯ラップ玉2つでも大量にできる。夕方にスーパーの小さめのおにぎりランチで小腹を宥めた。

 

行きつけのスーパーが台風の影響で早めに閉っている。それならそれでなんとでもなるから特にがっかりもない。少し遠目のスーパーが開いている。出た頃は風が少し強くて雲が重たそうだなという雰囲気だったが、スーパーから出た頃にちょうど霧のような雨。徒歩圏内だから傘は用意していない。風のせいで傘があっても雨避けの用をなさない気もする。

 

帰りにコンビニで水2リットルと、なんとなくプリンアイスを買う。欲に正直になっているなぁ。

 

洗濯していたが、うちのベランダでは屋根が足りないからこの雨ではきっと乾かないと、徒歩2分くらいのコインランドリーで乾燥だけ。最近できて利用したのは2回目だが、電子マネーも使えてとてもありがたい。携帯だけ持っていけば財布は不要。仮に化石のような洗濯機が動かなくなっても繋げる。

 

夜ご飯。副菜に浅漬けは昨日食べたから別の物にする。小松菜とえのきのすりごまポン酢和え。隠し味にすこしだけうどんスープのもと。メインには豚肉を買ったのだが、なんとなくシンプルが良いとなり、味付けはクレージーソルトと胡椒のみ。キャベツと炒める。調味料を少なくして美味しくするのもなかなか至難なのでは。ちょうど良い味だが、ちょっと炒め過ぎかもしれない。豚肉が少し硬くなっている。弁当兼用だから、どうしても火をきちんと通さねばとなってしまう。食感と食中毒防止を兼ねるのは難しい。要検証。

 

さておき。

 

土日に活性化させていたから、本日は不活性。ワンピースの空島編だとか、ゲームだとか、居眠り。ぐうたらだが、あえて動かなさないようにするということも活性の一部。活動したがっている自分を諫めて寝かす。

 

劇評めいた文章も、本日書くつもりだったが、まだ言葉という形にせずに熟成させた方が面白いかもという判断。体験を言葉化してしまうと、ある意味思い出というか記録のような、自分の外にある過去として押し退けてしまうから。まだそこに居るし、色々解釈もぽこぽこしているから、あと1週間くらいは放っておきたいなって。いや、僕の場合、書いたところでそれが記録になるということはないが、何回も同じものを形にするのは読み手に対する考慮がなさげだし。

 

最初に書いた劇評は、テキストもセットでいただいたから、言葉を解釈することに重さがあった。次もテキストがあったか。ただ、言葉(台詞とかト書き)を言葉として解釈するのは演劇の醍醐味とは少し外れている感。これって全ての表現物に対する姿勢とも一致するのか。

 

人が体験するものは言葉で構築された物であったとしても言葉そのものではない。

 

今ネタバレ的な発想を書いたとしても、週末にはきっと覚えられていないはず。

この人の中に何が残っているかって、主に仕事場の自他で検証しているのだが、自分事になっているかどうかと思われる。先生はかなり残している。これって責任感ではなく、興味な感じ。責任は記録には向いても、体験には向かない。

 

土曜日に観た演劇のテーマは、「争い」、「あの日」、「理想の死」とか、今までのごった煮みたいな感じなのだが、不思議とまとまっている。僕はやはり1作目の「PIPE DREAM」推しなのだが。

 

ふと、発想された感じの1つ。いまの自分の感覚とか意識って、過去の体験から淘汰されて残った部分だよなというところ。自分の内部にも生存競争があって、過去から抽出された自分っぽい部分が顕在しているのが今の自分。たしかにこれも「争い」だなーって。

 

僕個人としては過去とは和解したから淘汰とかはない。

この自分で在るという感覚が過去の自分にあれば、もっと楽しめた世界線もあるだろうなと想うが、いまを楽しんでいれば過去も未来も万々歳、仲良し。

 

 

ともあれ。

 

そろそろお風呂読書も入れ替え時期か。「性食考」は人の道徳的禁忌と、禁忌的事項を見ないようにすれば良いみたいな世界観は割と普遍なのだろうなという感じ。性的事項に潔癖な訳でもないが、誰とでもまぐわえるというお食事感覚はないという意味では物体的に潔癖なのかもしれない。慣れないのだよな。初回はだいたいうまくいかないし。

 

欲求不満なのかと言えば、空腹と同じように、肉体的には不満の時間の方が長いし、解消は行為している時にしかない。試行領域ではあるのだろうが、ご飯を提供するより遥かに相手に影響しうる事項であるし。

 

いや、なんの話だよ。

 

まぁ個人的に、綺麗な物だけ、自分の領域に外れない物だけしか見ない、採り入れないというのは人間的に不均衡な気がするから、正直に表現しているのが良い。不謹慎だというのも変な話。場所によって変さがまかり通っているのが人間世界の面白いところ。

 

もちろん人体の安全を守るためのルールとか、棲み分けとかは大事。

個人で在ることが場所のルールを度外視しても良いとなるのは、なんとなく思慮不足的ではある。

 

そういえば、「最終講義」でちょうど良く、免疫学の話。まだ本筋までは辿り着いていないが、細胞の曖昧性みたいな話。細胞が分化するのは成分の濃度という単純な構造でしかないとか。そこに感動して研究者になった人のスピーチ。

 

この感動という反応は、ルールとは別物。

変な話、性癖みたいな部分であって、偶然という名の必然を義務教育の中で得る人も居る。

 

僕のフェチは人だから、哲学も読むし、人も読む。

関係性においてで人を置くと大変なことになるからもうやらないことにした。

 

感動は言葉にもある。凄いのは鳥肌立つ。最近ではシュールレアリスムか。

 

あぁ、そうそう。

 

発想として、自分のことを場所として捉えている人が多いのではないかという説。たしかに物体としての人は重なることができないし、ここで捉える人観だと、混ざる余地がない。延長で、自分の過去と現在と未來の場所も共有できない。

 

人格がどうなっているかは厳密には当人しか分からないから、他人からすれば人を捉えるのは、言葉とか行動でしかない。僕はあんまりそれをそれ通りに捉えない。だって自分が世界をそういう風に捉えていないし。

 

自分が自由であるって、外から見ることでもないし、そもそも人格とか時間とか空間も、分かり易く発明された概念でしかない。

 

お待たせしているのでここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。