当て勘

 

 

運動会の練習のBGMで二度寝。横でソーラン節を踊っていたらしい。

 

なんだか癖の強い描写で書かれているこの人だが、一応あるがまま。ただ、描いていないだけで僕の方が遥かに強いから、なんとも不公平ではある。別に僕の動きまでスケッチしても良いけれど、万華鏡みたいになりそう。

 

お腹いっぱいの現在。焼き鳥、ミニトマトと塩昆布とチーズとちくわのバジルが振りかけられた和え物、茄子とちくわと生姜の煮浸し、鯖缶ごぼうと生姜の炊き込みご飯と豪勢。美味しいご飯を作ることができることは好きの原因でも補強でもないが、なんというか、これくらいできるような可動性がない人は僕に劣等感を抱いてしまうのではという感じはある。

 

僕は何事も研鑽できない人という自覚があるし、意志をもって継続することは不可能。努力によって今の自分があるという達成感がないのに、何かできることがいつの間にか増えているというお手軽人格である。これは外から見ればさぞかし羨ましく見えそうではあるからあまり開示しない。

 

しなくなった、か。

 

継続している=好きであるみたいな評価も面倒臭い。

自炊していると言うと趣味の領域になるし、文章だってそう。生活上に必要ではないことをしているのは、仕事が趣味かの二分化。

 

僕が義務教育時代に嫌だったのは、子供は勉強するのが仕事みたいな世界観。タスク(宿題)を作業しても、作業したという結果だけしか残らなくて、そこから何も得られない。もちろんタスクをこなすことだけが問題であるという世界観はありうるが、そこでもタスクをこなせば何かを得られるみたいな理想論がありそう。

 

仕事と趣味の共通項は、おそらく生活外において時間ないし空間を賭ける(当てた感じが違いそう)ような意味合い。僕は割と生活というか人生劇場として時間も空間も捉えているから、生活外であるみたいな考え方があんまりできない。

 

やろうとすればできるだろうみたいな話でもなく、できないことはしなかったことなのだから、そこに囚われる意味もないし、したいのであればいつからでもできる。それが社会的な地位だとすれば色々年齢制限あるから難しいこともあるが、他の方法で同じことができることはありうる。

 

僕はこの文章の日課めいた所作を「仕事」と表現しているが、これは社会的な職業の意味合いではなく、物理学のそれみたいに捉えている訳で。エネルギーの移動、ないし委譲みたいな。位置エネルギーみたいな意味の文章エネルギー。これは読み手に移動する。何にもならないかもしれなくても移動は移動。

 

特に実りも求めていない。

 

実りと言えば、僕と同じような環境のような人のつぶやきを見かけた。

育て方に失敗したって、僕の母親もきっと僕に想っている。姉とか妹に対してはそういう評価だって直に聞いたが、これが僕に対してはないということはない。僕に対してはきっともと苛烈で、投資したんだから投資分返して来いよという経済的な感じなはず。もしくは居なくなった父親の残滓みたいな捉え方もあるかもしれない。

 

僕の素朴な応答としては、育て方に失敗したかもしれないが、それは貴方の問題であって別に僕の問題ではなく、僕は失敗作であろうがなんだろうが楽しんでいるというだけ。内部は誰の惡評価にも侵食されない。

 

まぁ、達観の極致だと、淋しいとか、自分が居なくても良いという不在観も、人生劇場の醍醐味なのかもしれないとすらなっている。僕はどの場においてもだいたい「居ても問題ない人」に擬態できるくらいのストレンジカメレオンでは在るし、あんまり存在観がない。

 

と勝手に思っているが、何か誰かに残る存在もあるのか。

 

という感じで、僕は人の中に具体的に存在として残りたいみたいな飢餓がない。

たぶん今の恋人さんはこの僕で居ても大丈夫とは思うが、いつか残らない自分の事が嫌になる可能性はある。(ぐーすかしている、可愛い)

 

相手に残るかどうかを重視するのは当人の人生劇場問題。

 

本日の仕事で古参の先輩に物覚えが良いと言われたが、僕の物覚えはすこぶる悪い。物ではなく「もの」であれば残っているのだが、これが外部の記憶領域と混在される。外事で記憶のアーカイブがあることなんてほとんどない。あくまで自分の人生劇場に出てきたことをきちんと他人事ではなく捉えているだけ。

 

人の記憶力をサーチしていると、なんだかんだ自分の人生劇場における時空はしっかり把握されているみたいだし、あとは努力領域か。

 

 

なんで自分のことすら忘れてしまうのかっていうと、劇場が狭まっているからだろうな。

この意味で劇場を拡げるのは、読書とか思考の効用。自分の未解明さに辿り着いたら、人に攻撃的になれる訳がない。

 

僕はやっていないだけで、こういう文脈での自己防衛はきっと可能。

攻撃的な発話をする人ほど人格が柔いと思うと、母親にも優しくなれる。

 

強い言葉を発さなくても人を傷つけることは可能だから、言葉は難しい。

だからきっと、国語辞典を参照して誰しも言葉を発するのだろうな。

 

全然あてにならないのに。

 

 

はいおしまい。

おやすみなさい。

 

良い夢を。