人生の可逆性

 

 

なかなか遊んできた1日。現在深夜1時半。これから書く。

お風呂読書もしてきている。ほんと、よく分からないエネルギー源。きっと正でも負でもないのだが、何が動かしているのだろうか。

 

 

仕事はそこそこで。終わり際に少し忙しかったが、何やらのほほんとしている。古参の先輩に「しっかりしている」と言われたが、主観的なしっかりしなきゃとか、しっかりしているという感覚は皆無。その分、無駄なことが良く見えるし、なにやら思い付くだけ。この振る舞いが見ようによってはしっかりしているとなるのか。昔はもっと「しっかりする」の外形に囚われていたような感じ。

 

ちゃらんぽらんな部分も仕事で見逃さない部分も等価。どこまで行っても無知が拡がるだけ。注視しておかないといけないことがあるという観念も思い込み臭い。物事からずっと目を離さないと、それがゲシュタルト崩壊してしまう。

 

 

お昼ご飯は良い陽気。涼しく温かい。合流してお弁当とオリジンのおかずで空中庭園(自称)にてごはん。コンビニでゴディバ監修の缶コーヒーを買って、缶コーヒー業界のマーケティングについて一頻り思い付く。缶コーヒーの味の薄さって、コーヒー好きには物足りないし、原価コストのカットというのがありきたりな考え方。ただ、味わい深いコーヒーを缶コーヒーで提供していたら、お手軽に一息でぐびぐび飲めない。僕は別にどんなコーヒーでもぐびぐび飲むことに違和感がないのだが、いつかぐびぐび飲んでいたら、それを見ていた当時の知人が、「コーヒーはそんな風に飲むものやないやろ」と言ってきたことがあった。

 

缶コーヒーはあえて薄味でぐびぐび飲める需要を狙っているのではという説。

そう考えると、ちょうど良い塩梅を苦心してくれている開発者に苦言は浮かばない。正味、ゴディバ監修の缶コーヒーはゴディバの力が強すぎてコーヒー味を出し切れてなかった。これは味というより力関係のような(偏見)。コーヒーを飲みたいときにはではなく、チョコレートドリンクが飲みたいときに飲む物としては完成度高いと思う。

 

諸々の人間が創り出した物事は狙いがある訳で、そこから自分の需要が外れていたからって、開発者を否定する方向には向かわない。まぁ開発者の苦心を慮らなくても良いというのが消費者の特権でもあるし、気持ちは分かる。先生は合理性を重視する人だが、このフレーズをよく使うから好き。分かたれた気持ちとして独立として見ることができるとこの語用になって、分かたれてないと、「理解」になりそう。この理解には腑に落ちるとか自分の気持ちと重なるみたいな意味が含まれているから、きっと妥協ができない。あくまできっと。

 

仕事が終わって運試しで大勝した恋人さんと合流し、運試しに行って遊ぶ。僕はなんとなく負けたのだが、楽しんだ。遊びだから勝ち負けは関係ない。まぁ1回は当たったから良し。なんだかそういう運否天賦に機嫌が左右されない人格なのだぞという感じ。昨日の昼間、一瞬由なく寂しくなったのだが、なんでそうなったかもわからず通り過ぎてしまった。

 

その後遅めの晩御飯で、ステーキを食べる。

味は美味しいのだが、店員3人しか居ないのに宴会やっているし、女性店員さんがお疲れだし、厨房の人も新人ぽいし、席が狭いのに空いた器を片付けてくれないしで若干ゆったりできにない。女性店員さんは腰を叩くしぐさをしていて、本日さぞかし重労働だったのだろうとか。本来はそういうのを見せないようにするのが仕事なのだが、居酒屋とはそういう機微にお構いなしの場というか、誰も見ないから。

 

気を取り直してモニターのテレビを眺める。ダウンタウンDXが流れている。閑散としているというか、このご時世だから人と人の間が広いのかとか、字幕で流しているから音声必要ないのかとか、色々時代が変わっている。CMで流れていた金曜ロードショー、気になる。細田守さんのやつ。サマーウォーズ時をかける少女も好き。

 

バーチャルというか、存在の乖離がテーマなのかな。

劇評の最終地点もそうなりそうな感じ。

 

 

帰り道、やっと、お気に入りの白彼岸花スポットを紹介できたのだが、公園に猫氏が2人居て、そちらの存在観に彼岸花が負けていた。夜の集会の邪魔をしてしまった。特に逃げもせず、きょろきょろしている人達。

 

やれやれ。

 

色々文章を食べていて、ふと、ポジティブもネガティブもお腹いっぱいだなと想った。どちらの方向でも結局は自分のことを決めつけているのはともかく、僕はどちらでなくても自分で居られるなというだけだから、どちらに浸っていても問題無いし否定するつもりもない。

 

問題はその方向から迷子できるかどうかに尽きるのでは。精神的ホメオスタシスとしては現状維持をしようとする慣性のエネルギーが生じるから、その外が見えなくなる。

 

僕はこのしがらみは完全に外から来ているものだとしたらしく、自分の瞬間瞬間の波打ちそのものが自分で居いとなってきた。凹むことによって行動が変わるということがないとは言えないが、それで動けなくなるということはないし、楽しさは楽観でも向上心でもなく、他に色を付けない。

 

恋人さんのことはもう少し安心させてあげなきゃなとは思いつつ。

 

 

最後に変な話だが、人間は物理世界の移ろいという時間の一方通行性から自由になれるという説。厳密に物理現象を言えば、時間を伸ばしていけば同じ現象が再現されるということは在りえそうな感じがあるが、ともかく。

 

僕は人間が時間としていることがどうでも良くなっているらしい。

恋人さんが、最初に逢った時より顔が若くなっていると言うし、自覚症状でも10年前の方きっと老けていたというか、肌感がひどかったし、頭の中もそう。

 

脳が捉えている時間はきっと物理的な推移としての時間ではないのだよな。

 

 

考察は本日もうできないのでここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。