とんぼとさんぽ。昨日歩いている道中に見つけた語呂の良い言葉。ほんとは昨日の日記に入れるつもりだったが、酔っぱらい時の頭の中は言葉が遊んでいるため、予定通りにはいかない。ふと、本日の昼に「とんぼの群生地だ」という言葉に応じてまた出てきたため、本日に入れておく。
そういえば、遊び惚け過ぎて劇評めいた文章を書く暇(いとま)がなかった。熟成しても特に抜け落ちることはないから、まだ放置。記憶の喚起はそのときの空気感を再現すればできる。読書も大量派でもあるが、1読でかみ砕けない本は反芻するために何周もするし、折に触れて人生も反芻している。この先に取っておきたいみたいな発掘作業ではなく、こんなこともあんなこともあったなぁってお気楽な感じで。
さておき。
本日は連チャンでしこたま飲んだために、絶賛二日酔いの日だが、胃腸の不快感では楽しく過ごすブレーキにはならない。二日酔いのステージで言うと中度だったから問題ない。軽度は別に日常生活に支障はないが、眠気とかだるさがある。そしてお腹が空く。重度は水すら受け付けない。水が飲めるようになるまで横になって苦しみながら待つしかない。虚無の世界。
中度は、水は飲めるし活動もできるが、なにせご飯が食べられない。梅干しは食べられる。もちろん二日酔いも人それぞれだから、人によって症状が違うはず。おそらく本質はどんな気分で飲んでいるか。
ともあれ、恋人さんのお昼休憩が11時半からとのことで、がっつりご飯が食べられないことを告白すると、軽めのご飯にしてくれた。予定では懇意にしているお食事屋さんでお礼も兼ねて食べるはずだった。お礼というのは昨日ホテルに泊まるときのおかずを用意して貰った。刺身と寿司とイカフライとカキフライの半端なく豪勢な食事。そして部屋も広かったから、今後のお気に入りになりそうな感じ。
そうして、そこの店員さんも彼氏の顔が前と違い過ぎて別の人だと想ったのだとか。これ、もう主観では済まされない。可逆性。自分の貌と精神が一致してきている説。まぁ人って視力も人それぞれだから、人がどういう風に自他を認識しているのかもきっとそれぞれ。僕の視力は何故か落ちないから、割と解像度高く人を認知していると思われる。人の情報は物理的側面というよりは内面に本質があると思っているので特に見えるものが全てともしていないけども。
もちろん見えるものも大事だが、何が見えるかではなく、どう見えるかの方が大事。どう見えるかは当人の世界観もあるが、調子もある。
どうでも良いが、新人さんが案件を記録する文章はとても主観的。文章を句点で切った後に、ので、という接続語が入ったり、こういう風にお話する、みたいな余計な言葉が入ってきたりする。仕事の記録は誰かが読み返すためにある訳で、自分の主観を書く所ではないよなーって。でも、本を日常的に読んでいる風な感じもある。
ほんとどうでも良い話だった。別にストレスではなく、読み物としての感想なだけ。僕がこの人の上司だったらどうしてくれようかという感じはあるが、そんな世界線はいまのところない。
やれやれ。
そうして、二日酔いで不調の威を抱えてさらに遊ぶ。なんだかんだぎりぎりから巻き返して勝ってしまったが、この辺りが一致の副作用みたいな感じ。別にあぶく銭を自分の為だけに保持したり使ったりする気はない。クズはクズで良いが、そんなに捨てたモノではない。
あぶく銭でからくりサーカスの原作を買って読み返し。
定期的に泣かせてくる漫画。やや重たいからきちっと爽快感みたいなカタルシスはないのだが、人間ってそんなに切り分けられないということが描かれている。舞台に上がっている人達は厳密には人間でない人が多いのだが、だからこその劇場感。人形のように生きることから外れることができるのが人間だって。
1人で美味しいご飯を食べたいというのはないから、本日から通常の弁当タイムに戻った。胃もたれで傷付いた粘膜を回復するために、というか胃が欲していたから、長芋のわさび漬けを作った。あとは豚肉とキャベツの味噌炒めとベビーリーフサラダ。
肉体の栄養素に対しては割と堅実。いっぱい食べれば良い訳でもないし、ある程度長く生きていれば、自分の体が何を欲しているかくらいは疎通できる。そんなに量は要らないはず。自炊の醍醐味は、食費が節約できることではない。
疎通と一致。
昨日の日記って、おそらく自分のことを褒めちぎっていた気がする。これって社会的には結構タブーというか、遠慮しないといけない。というか、何者でもない自分を賞賛するって難しい。だから神様とか価値とか立場を媒介に噛ませて間接的に認めないといけない。
個人的にはこういうのが嫌だったのだろうな。
そうじゃなくて、人生ガチャでこの肉体と人格に生まれ落ちただけで当たりであるとできるようになって、顔が生き生きとしている。根拠なんて要らないし、人と比べる必要もない。
何がなくても僕は自分を賞賛しているし、人のことももっと褒めて良い。
褒めるって理由が必要っぽいから、人はこれをするのが苦手。何か下心があるのではないか、みたいな。
こんなの、言葉を文字通りに遣えていない。
何かができたから褒めるなんて動物の躾じゃないんだから、肉体のパートナーとして自分のことを褒めちぎったところで、怠けたりはしないと思うのだよな。
まずは自分と仲良くなること。
僕はもともと仲良く一致していたが、他の人がそうじゃないから辞めておくかみたいなホコリが溜っていた。まさにからくりサーカスみたいな話だが、僕に貴方はもっと笑えるようになると予言してくれた人が居た。そうこうして、何事がなくても何かは起こるのが人生で、日常的にきちんと笑って生きられるようになっている。
もう少し先もある。
運試し場の学習というか、僕はちゃんと場所取って自分で居て良いのだなという感じ。
繊細さん傾向もあるし、自分の存在的に離人感もあった。
ほんとうの繊細は他人に移入して自分の置き所がヨクワカラナイとなる気がするが、蔓延っているのは、あくまで情報が主観的に煩わしいという次第。これって繊細なのではなく単に神経質なだけでは。
独立に主観として存在できることは、他人に割り込むことでもない。
越境で偶然(必然)に場所を取ってもしょうがないなぁとは納得できてきた。
人自体はそんな椅子取りゲームで動かない確立された存在として接するべき。きっとマージン取っているのだろうし。
何を確保したら安心できるのかって、素朴な僕には分からない。
その余剰はいまに対してはちょっとしか使えないし、余剰があるから人に好かれるみたいなこともない。
僕は日々今々で楽しい。
おやすみなさい。
良い夢を。